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平島紀行

八月二十四日(火) 快晴

鹿児島空港に柳田が待っていた。民俗学の泰斗・故宮本常一が主宰していた観光文化研究所の最後の所員である。鹿屋から車で駆けつけてくれた。わたしは、出迎えのありがたさを、日常の顔で受けた。無頓着とさしてかわらない面相が許されるのが嬉しい。

軽ワゴン車の助手席で揺られて、蒲生に向かう。鹿児島市内で午後五時過ぎに、元平島教諭ふたりに面会する予定になっているので、それまでには二時間の余裕がある。それで、柳田が、蒲生で喫茶コーナーを設けている友人宅にわたしを連れて行ったくれたのだった。

古い民家を改装した店内は、心地がよい。畳の間と板の間があり、数卓ある最奥には高校生らしいふたりずれの客がいた。店にはなじみの客とみえて、接客に出てきた奥さんが気さくにふたりに話しかけていた。

手入れの行き届いた前庭には、幹の太い樹木が何本か立っていた。黒々とした葉陰が地表に落ちていて、炎熱の日射しをさえぎっていた。風景から涼しさが漂ってくる。この庭で周防の猿曳き・村崎修二が公演したのだという。二ヶ月後の今年十一月初旬には、猿曳きとカゴ屋がジョイントすることになっている。宮崎県諸塚村上塚原神社の祭礼の場で、「お猿とカゴ屋でホイサッサ」といくことになっている。カゴ屋はあくまでも前座なのだが、晴れがましさがついて回る。お猿さんの尻馬に乗るとは、何ともへんてこりんな言い回しである。

鹿児島市内に先に到着しているはずの刈屋青年へ電話を入れる。すでに、島行きの乗船切符も手に入れたとのこと。同行者がいると助かる。その連絡が終わってすぐに、山口から車で駆けつける別の同行者の駐車場を手配してはくれまいか、との要請があった。有料駐車場があるにはあるが、数日の利用は高額につく。急いでわたしの友人宅に連絡を入れる。友人の連れ合いの実家の駐車場を当てにするが、あいにくと連れ合いは留守であった。携帯電話の番号を教えてもらい、改めて通話を試みるが、通じない。先生たちを待たせてはなるまじと、こまめに発信するも、かなわない。同行者がいるということは、不都合を共有するということでもある。

八月二十五日(水) 雲ひとつないメチャ快晴 べた凪

前夜の十一時五十分に鹿児島の南港を出たフェリー・としまは、朝の八時前にふたつめの寄港地である中之島に到着する。この島には多くの知り合いがいる。この島の製糖工場で働いていたことも、それから、島のあれこれをひと月にわたって語ってくれた永田常彦ジイも忘れられない。明治二十五年(一八九二年)生まれであったが、十九世紀の初めのころからの島を微細に教えてくれた。そのジイも他界して久しい。

近ごろは、日之出地区でペンションを営む早川さんと、毎年逢って、焼酎飲みを共にしている。「足代までは用意できないが、寝食は面倒看るから、遊びにおいでよ」のコトバに甘えて通っているのだった。その中之島を無断で通過するのは、どうも「仁義に反している」ようで、あらかじめその旨を電話で伝えておいた。共通の友人が港で荷役作業をしていたので、伝言とみやげものを託す。

八時半前後に目的地の平島に着く。一四〇〇トン弱の鋼鉄船が接岸すると、すぐにタラップが船と岸との間に掛けられて、客は二十歩も歩かないで上陸できた。舳先の方ではコンテナが次々と巻き揚げ機で吊り降ろされる。二十分ですべての作業は終わり、フェリー・としまは離岸した。わたしが島で暮らしていたころの三十余年前との変わり様をコトバに尽くすには時間が入り用である。われわれ一行六人は用澤満男の車に乗って、十分ほど離れた台地に開ける集落に向かった。

朝食後、皆で散策する。発電所、ワタンジェ、タテミチ、学校、ナカヤマ、千年ガジュマル(このネイミングは近年のものである)、ウネツヅ、そして宿のたいら荘に戻る。

午後、ヒガシのハマへ車で出かける。ゴロタ石だらけでも、ハマの名前が付いている。アナンクチの奇岩を見物して帰る。夕方、テラで小踊りがあるので、それを皆で見物に行く。ということは旧暦の七月一六日ということになる。前日の十五日までで、おおかたの盆行事は終了している。

特に、十四日と十五日は盛大である。宮ジンジョの踊りの合間に休憩時間が取られ、オーニワ(御庭)の広場にゴザが広げられる。男たちが車座になって酒盛りを始めるのだが、女たちもその輪を遠巻きにする。夜空を突きさすような大声が、焼酎の気炎となって飛び交うのだった。島に暮らしているころのわたしは最若手であり、焼酎を注いで回るのに忙しかった。

夜は宿の主人である満男氏の歓待を受ける。われわれに何とか海の幸を食べさせようとして、昼飯抜きで沖漁に出ていた。食卓に並べられた食材は見事であった。カツオ、シビ鮪、その他が、所狭しと並べられる。連れ合いのひで子さんとふたりで包丁を握ってくれたのだ。多くの飲み客が訪ねて来て、きょうが初日とは思えない。

八月二十六日(木) 昨日に続く大快晴 ベタ凪ぎ

トカラの島々の行政上の名前は十島村(としまむら)だが、その村内には七つの有人島があり、定期船は各島に順次寄港しながら南下する。昨日の下り便は、南端に位置している宝島を出ると、奄美大島の名瀬港まで足を延ばし、そこを折り返えして、上り便となる。

朝の六時過ぎに島内放送が流れた。「こちらは防災十島です。フェリー・としまについてお知らせをいたします。フェリー・としまは六時十五分に宝島を出港しました。小宝島入港は六時四十分の予定です。くりかえします。フェリー・としまは……」

この放送は鹿児島市内にある十島村役場から、各島に流されている。わたしの在島中は、こうした公報設備がなかった。それで、いつ入港するとも分からない船影を待って、三時間も砂浜に腰を下ろして待っていたことがある。その間、皆でおもしろおかしく語り合うのだった。「海の宝物と、陸の宝ものと、どっちが多かろうか?」という話題が持ちあがったのも、こんな時であった。海には魚がいて、カツオは節にして換金できるから、海が勝ちだという者がいる一方で、いや、陸には米もあり、水芋も採れる。ツワブキだってある、それに、ヤギや牛を飼うこともできるのだ、と対抗する。船待ちで退屈した記憶がない。

午後、学校の集会室でこども達が太鼓の練習をしていた。二十八日に予定されている夏祭りの出し物だそうだ。その脇で、大越、刈屋、マナミ、芳郎がバスケットに興じる。後にはみぎわとナオも加わり、おとなこども合わせての鬼ごっこ。こども達はすっかり若者たちに馴染んでいた。

帰る時間になって、スコールのような激しい雨が降る。いくらもしないで晴れ上がり、皆は温泉に行く。「赤ひげ温泉」と名付けられ、週に三度のわりで湯が沸かされる。これは竹下登首相のころ、つまり、バブル経済の絶頂期に各自治体に一億円が交付された折に、村内の島々にもたらされたものである。

もっとも、中之島と小宝島、それに、悪石島にはそれ以前から天然の温泉が利用されていた。列島は、平島と臥蛇島を除いては、霧島火山帯の中にあり、活火山が火を噴いている。中でも、諏訪之瀬島は活動の激しさから、集落が溶岩流に埋まり、六十余年の間、無人を強いられている。

夜はまたしても大宴会。満男さんが早朝に捕ったエビが供される。エビ刺のコリコリとした食感が咥内を泳ぎ、独特の甘さに頬が落ちる。このエビ捕りには芳郎とみぎわが同行した。

宴には、久志、村主、村上(カメラマン)、広光、それに純司も加わる。島で飲む焼酎は、次の行動を起こさなくてもかまわない、という安心感がある。酔いつぶれて、道端で朝を迎えようが、なんの不都合もない。これは中之島でのことであったが、同島東区の畠貞二さんが、早朝に藁クズを全身に付けて丘から下りてきたことがあった。酔って豚小屋の藁の中で熟睡していたのだという。平島でもにたようなことをしている。

八月二十七日(金) 曇ったり晴れたり 海上は白波が目立つ

低気圧の接近にともなって、定期船の鹿児島港出港が順延になった。われわれ一行の中には、一日遅れると、帰りの航空券が無効になる者がいた。無効にして島に滞在を続けたならば、会社の仕事に穴を開けかねない。それを避けるためには一日早い下り便を使って奄美大島の名瀬港に出て、そこからは空路で鹿児島空港まで行くことである。

上り便で帰る予定であったが、急きょ変更することにした。夏祭りを終えてから帰るようにと、皆に誘われていたのだが、それもかなわなくなった。というのは、祭りは下り便が入港した日の夕方に開催される手はずがととのっていたからである。鹿児島からの食糧物資が届かないうちは、祭りが開けないのだった。

夕食後、若者四人がヤギ捕まえに出かける。車のライトの明るさに目まいをして立ちすくんだところを、手数を揃えて包囲するのである。このヤギはどこかに出荷するのだろうか。一頭を捕まえただけで終わった。その後、若者四人は闇の中で肝試しをして、十一時近くに宿に帰ってきた。

八月二十八日(土) 快晴 海上は大しけ

定期船は今夜、鹿児島港を出港するとのこと。明日は凪ぎるようだ。午前中、水源地へ見学に向かう。ガイムキの水源地から部落の水道タンクまでは八百メートルある。その間の標高差が八メートル。これでは、水流に勢いがつかない。以前にタンクの大掃除をしたことがあって、給水を再開したのだが、タンクに最初の一滴が届くまでに四十八時間掛かった。現在は電力を利用して、より高いところに水を押し上げているから、給水はスムーズに行われている。

帰りに治美アニの家に立ち寄る。ここは、わたしの旧居でもある。小型犬のチワワが出迎えてくれた。民俗学者でもあるみぎわがアニにタブの実の食べ方を聞き出していた。唐芋の菜として、大量に食べていたそうだ。生のままでもいいが、熱湯を掛けてから食すと喉ごしが良いとのこと。アニは昭和三十七年に島の中学を終えているのだが、在島中に白米を食べたのは盆の正月だけだった。

午後、久志の家を訪ねる。次代の島のリーダーと目されている若者だ。中学卒業と同時に都会暮らしを始めている。東京にも長くいた。その若者が、どんな苦労、工夫を凝らして島暮らしを続けているのかを聞いた。

帰省して十三年になるが、島を離れようと思ったことはないが、かといって、どうしても島で暮らさなければならないというようない、内から突き上げるものがみあたらないのが苦しい、とも言っていた。

現在は肉牛の生産に精を出していて、人工授精の技術者でもある。小一時間いて、若者たちは学校に向かい、こども達とおにごっこに興じる。わたしひとり、良一宅に行く。夕方の五時に来るようにとあらかじめ招かれていた。

焼酎を飲む。村主も来る。しばらくして、芳郎とマナミが合流する。村営住宅であるから、広くはないが、在来島民の家にはない明るさがある。サワラの薫製と、刺身をご馳走になる。

良一は帰省して一年にしかならず、いまだ暮らしの安定にめどが立っていないのが不安だと洩らしていた。わたしが青年団に入っているころは高校生であった。

夏休みに鹿児島の下宿先から帰ってくると、素潜りの魚突きをして、獲物を近所に住む年寄りたちに配っていた光景を思い出す。七時前に良一宅を辞して、温泉に行く。

宿に帰ると、満男がわれわれのために最後の宴を用意してくれていた。十六人が長い座卓を囲んだ。席順を書いておくと、床の間を背にして、なんと、ナオであった。そこから時計回りにして、満男、良一、村主、純司、みぎわ、若いふたりの女性教員、ひで子、まなみ、広光、翔平(中3)、刈屋、大越、芳郎、それに守である。

ひとりひとりがどのような話に夢中になっていたのかは分からないが、わたしは、満男、良一、純司たちと熱く語った。島の中ですれ違ってもあいさつをしない一家があることに、誰もが心を遣っている。どうすればいいのか、良策が浮かばない。それと、盆の小踊りのときに、イザケ(神酒)を歌い手と踊り手に振る舞うのだが、その役を純司が受け持った。

誰から先に振る舞っていいのか、宏オジと満男オジの指示が異なっていたので、純司はとまどったと言う。そのことを満男が叱責した。「考えてみれば、分かることやろう」と、小踊りの唄の歌い手が先であることぐらい、どうして分からないのか、と責める。純司は、それは分かっていたが、宏オジが、「よかで、イザケはそこに置いておかんか!」と指示した。若い純司にしてみれば、指示に従うしかない。それでも、満男は手順の誤りを、本人の判断ミスと決めつける。「それなら、先輩たちが意見を統一してくれよ。でなければ、下の者は動けないではないか」と、強く抗議した。

純司は久志よりも若く、また、帰島して三年にしかならないのだが、島への情緒的な満足度は高い。発電所の職員として、生活も安定している。つまり、「おれは島が好きだ」とはっきり言える人なのである。島のこれから先を語るとき、確かな階梯を踏んでいこうとする欲がある。そのことは、久志の苦悩からは遠く離れている。

いつのころか、わたしが島を訪ねるたびに、聞き役を引き受けるようになった。年齢の上ではそうあっても不思議ではないのだが、年に一度の訪問にしては大役に過ぎる。「ナオさん、島で暮らさんか?」の誘いが、くすぐったくもあり、何か人を欺しているような後ろめたさが拭えない。

八月三十日(日) 快晴 べた凪

朝八時過ぎに入港した定期船で名瀬港に向かう。こども達は、お兄さんやお姉さんとの別れを惜しんで、朝から動きを共にしていた。六時半のラジオ体操に始まり、朝食後は、皆が歩いて港へ下りることになった。船が離岸して、沖に向かうと、こども達は堤防の突端まで走って追ってきた。

船からも、岸からも別れの声が飛ぶ。こんなとき、島の者なら指笛の応酬となるのだが、とフッと気づいて、わたしも、小指を丸くして唇に差しこみ、強く息を吐くも、かすれ音しか出てこない。こんなわずかな仕草の中にも、「自分は島民づらしてはならない」と、苦く胸を掻きむしる。

こども達の姿が視界から消えても、若者たちはしばらく最上段の甲板に居残っていた。ひとりひとりは距離を置いて手摺りに上体をあずけ、海原を眺めていた。イルカのファミリーが近くの海で跳ねてように思えたが、定かではない。前日の荒海が手のひらを返したように凪いでいた。

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