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2011年9月23日 中之島Dream Time

前回に引き続き、尚友塾頭の口述による中之島レポートをお送りします。

写真1 ヤルセの石抱きガジュマル

現在の中之島集落は島の西側にあるが、古い集落は東側に集中している。北から順にフルサト・シラキおよびヤルセである。途中にある七つ山にも旧集落があるが、これは海岸線よりもやや内陸部に位置している。最南端にヤルセがあるのだが、そこには戦後開拓集落ができ、児童数も多く、中之島小学校ヤルセ分校が開校されていた。現在はその校庭跡地はバナナ並びにミカン畑となり、島民の味覚を喜ばせている。

その校庭に隣接する土地は、広大な旧祭祀場であったらしい。多くのガジュマルが天空を覆い尽くし、足元は草も生えないほどの黒い影を落としている。祭祀跡地である証拠として、巨石でふちどりされた台地が残っている。

写真に見える石はそうした聖域ではないが、その神々しさはあたりを圧している。

写真2 日の出分校跡地のプール

「第3のコ~ス! 半田君。日の出分校3年生……」

これは、世界一縮約された学校公認水泳場である。東シナ海に浮かぶ島と言えども、ここ、日の出地区は中之島の中心部にあり、海へ気楽にはあそびに出られない。やはり開拓集落がこの地にでき、小学校の分校が開かれた。昭和40年代前半に赴任していた芝分校主任が、そうした子どもたちの教育環境をなんとか改善しようとして、日の出地区住民の協力を得て作られたプールである。

コースに立って飛び込めば、そのまま向こう側のへりに到達できてしまうのだが、この3コースはにぎやかな地区内オリンピックの場であった。その後開拓集落の縮小に伴い、昭和50年代に閉校となった。

写真3 中之島西区里(さと)部落の墓地

これは、まぎれもない数百年に及ぶ墓地である。正式な墓地名は中之島西区里(さと)墓地で、2011年9月現在、5基が祀られている。多いときには中之島全島で1300人を超え、また、西区だけでも100戸数はあった時代もあるが、現在ではその3割にも満たない人口になってしまった。お墓も多くが鹿児島市およびその周辺に改葬され、現在残っているのはこのわずかな墓に過ぎない。

集落の中は高齢化が進み、子どもの声も消えてしまった。盆踊りはもはや行われない。

写真4 寄木浜の密貿易港跡

密貿易は夢の跡。北緯30度を境に日本と米軍統治下の沖縄とが分離されたのは、戦後まもない昭和21年のことであった。たがいの行き来が不自由になったのであるが、物資の交換はそうした障害を乗り越えるが如くにさかんな密貿易が繰り返された。

その第1線にあった島が、同じ十島村内の口之島である。島の北端部が30度線を横切っていたからである。当時の報道写真を見ると、海岸線に山と積まれた木箱は、まるで前線基地のそれを彷彿とさせる。

貿易品が増大するにつれて口之島だけでは処理しきれなくなり、第2の密貿易基地として中之島の七つ山がうまれた。さらに同島の寄木浜も使われるようになった。この浜というのは在来集落がある西海岸の南端に位置している。集落には入国管理を任されている警察官や他の係官が常駐していたので、そうした人たちの目をくらますために集落最南端の遠隔地が使われた。その遠隔地こそ寄木浜の密貿易港であった。

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