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地球温暖化とエネルギー問題の虚構(橋爪健郎)

人から人へ

かつて米ソ核実験や安保条約反対の時代、学生の意識行動は世間の先を行くと見られていたが、現代は世間の意識をそのまま反映している。鹿大で地球環境エネルギー論の講義を10年以上やっているが、「環境問題とは温暖化の事かと思ってました」と信じ込んでいる学生は例外ではない。もちろん市民にとって本質的な情報についてであるが、現代ほど情報統制が徹底した時代はない。原発エネルギー問題に関わって40年近くなるが、深く関わるほどその実感が強くなった。

私はかねてから、エネルギーは原発のような巨大施設から一方的に流されるのでなく、地域自給の自然エネルギーを主体にすべき、と主張してきたが、エネルギー問題だけではなく、命にとって本質的な情報であればあるほど、情報伝達も、巨大メディアからの一方伝達でなく、人から人へ顔の見える規模の関係を通してしか伝わらない、との思いがますます強くなった。

温暖化対策=原発

そのような今の日本で、ほとんどが信じているのが、「気候変動=地球温暖化=CO2排出、そのためにCO2を出さない原発だ」である。実はこの等式は比較的ニューバージョンなのだ。

70年代初期の石油危機の時代、「石油はあと20年もすれば無くなるので原発しかない」。そして「石油より原発は発電コストが安い」として九州にも玄海原発など多くの原発がつくられた。もちろんCO2のことなど全く話題にも出なかった。

あれから40年たって遙かにエネルギー消費が増えた現代でも、石油はあと40年持つとされている。当時は運転後の廃棄物処理ははたして可能なのか、どれくらいのコストがかかるかなど、科学が進歩して解決するだろうとして、ほとんど無視され問題にもされならなかった。

80年代、中国など発展途上国の経済発展が本格化すると、「石油などの化石燃料消費はそれらの発展途上国に優先させるべきで、日本のような高度技術を使える先進国は原発を主体にすべきだ」となった。といっても、出力変動が出来ない原発をつくれば、変動する消費電力に対応するためには、原発に比例してどうしても化石燃料の火力が増加させなくてはならない。そこで「ベストミックス」と言うわけの分からない言い訳が出てきた。原発だけでなく、化石燃料など丁度良いようベストにミックスした使い方にしましょうと言うことである。

日本の石油の大部分を依存している中東の政治情勢は当時も今も不安定だが、「ウランは石油と違い資源地域が分散し政治的に安定した地域にある。それに石油みたいに価格変動が少なく、安定した供給が確保できる。輸入するウラン燃料費より建設費の割合が大きいので準国産エネルギーである」と。

九電が25%投資してウランを輸入していたオーストラリアのジャビルカ鉱山は、そこで生活している原住民アボリジニが反対している世界遺産地区である。中東のようなテロ頻発みたいなことは起こらなかったから「政治的不安定はない」と言えだろうか。まして環境のためならば、輸入は中止すべきことなのだ。

当時、推進側でさえ、ある情報誌に「あまり原発推進の必要性理由をコロコロ変えると説得力が弱くなるではないか」と、自己批判していたのを読んだことがある。

環境問題が深刻化し出した90年代からは、最初にあげたイコールの等式にもとづいて環境問題の解決は原発推進となった。学問的には、いわば、「風吹けば桶屋が儲かる」みたいなに科学的確証なしの方程式である。だが、現代の科学者は直接間接を問わず、大なり小なり産業界との利害関係がある。一番利害が少ないはずの大学教員も、原発問題に対して公式に意思表明する者は圧倒的少数である。

先日、鹿児島大学で講演したアラスカ大学地球物理学教授赤祖父俊一氏は一般論として温暖化とCO2問題はイコールではないと明言できると学問的に解説し、そのことで日本政府は他国に利用されていると、彼の政治的見解を表明した。

しかし、では、CO2問題イコール原発増設をどう考えるか、と私が質問した事に対して「政治的見解は出来ない」と見解を表明してくれなかった。

戦争と原発

戦争を上回る潜在的危険性をもつ原発は戦争が原点である。もともと日本では発電所は地域ごとにつくられていた。

九州北部の炭鉱地帯では石炭火力があった。現在は西日本は全て60ヘルツの交流だけど、当時、炭坑のモーターを廻すために30ヘルツだったという。文字どおりの地域分散型の発電システムだった。大きな河川がいくつもある宮崎県は、豊富な水力資源があった。戦前から戦後まもなくまでの水力が電力の9割だった時代、宮崎県は九州の電力源となったが、大正末期、福岡県で消費するための発電所をつくることに、住民は地元の資源を奪われることに強い反対運動の歴史があった。だが、そのころから軍国主義が強くなり国家の圧力で反対運動は潰されている。

儲かるのは桶屋だけでないかもしれないし、逆に損する事もあり得るそれくらい情報統制が巧妙化してきたともいえる。

第2次大戦前、ナチスドイツは水と電力を国家管理にした。それに習って日本はそれまで地域ごとに多様に存在した電力システムを国家管理とした。戦争に国民を駆り立てるには国民に首輪と鎖をつけなければならない。国民にとっての首輪と鎖になるのは生活にだれも必要とする水と電気だと日本はヒットラーに教えてもらった。日本の場合、水はどこでもあるので電気である。やがて戦争体制になり、今までの地域ごとの発電所がすべて国家管理になってしまった。

戦後、電力は占領軍によって9つの会社に分割された。それでも九州では九電しか許されず、独自に発電会社を作ることは出来なくなった。電力会社は戦後の復興に必須な電気をつくるとされ特別扱いされた。電力供給義務など戦後必要な時期は有ったにしても、国の保護のもとで地域独占が許され電気代と絶対損をしない営業利益を保証された。

宮崎県では、戦時体制で国家管理された県営の発電所を、戦後は九電に移管されたことに対して県民の大きな反対運動があった。福岡市の九電本社ビル内に宮崎銀行の支店があるが、そこには、それまでの宮崎県と九電の歴史的いきさつと関係があったのでないかと私は推察する。

本来ならば、戦後復興が終わった段階で、電力会社も完全民営化されても良いはずだった。戦時以来の国と電力会社との癒着が続き、一般企業は参入できず、自由主義を建前とする資本主義本来の有りかと言うより、むしろ旧社会主義国家の体制が続けられた。

それと引き換えに国家は電力会社に原発を押しつけた。原発と核兵器は技術的にほぼ同じであること、民衆への鎖として原発による電力体制が一番有効であることだと思われる。本来電気をつくるのが本業の電力会社は、いろいろ問題だらけの原発などに手をつけたく無かったことは事実かもしれない。現代でも電力会社は、さらに何のメリットもないプルサーマルはやりたくないのが本音であろう。だが国との癒着により得られる独占のメリットは代え難い。かつて、四国電力社長は「本当は原発などやりたくないのに、国がやれと言っているから、しかたなしにやっているのだ」と発言したのが記事になり、国から大目玉をくらった事があった。しかも彼がそう言ったのは一度だけではなく、その後も同じ事を言っている。

自然エネルギーならば良いのか

九電の広告も時代と共に変ぼうする。数日前、「970世帯」という大見出しの九電の新聞広告があった。風力発電の写真だけがバーンとあり、九電は風車などいろいろな自然エネルギー開発にも努力してますと謳っている。それ以前も、やはり風車が全面の広告はあったが、隅っこに原発のことがちょっと出ていた。今回は原発のことは何もない。

1980年代の広告は、カルフォルニア風車ファームに感動している幼い女の子へ、当時高名な映画監督が、「理想と現実は違うのです。風車で賄えるエネルギーはほんのちょっとですよ」と諭す構成だった。基本的には今も同じ路線のようだ。自然エネルギーという誰でも認め望むものを肯定して否定する戦法である。

【表】九州の風力発電(離島、「研究用」を除く)

  制限数 申請数
2005年 60,000kw 858,450kW(65件)
2006年 50000kw 1,051,200kW(85件)
2007年 130000kw 1,871,980kW(116件)
2008年 170000kw 831220kW(46件)
2009年 170000kw 408,830kW(26件)

計約66万kw(離島、「研究用」を含む)。    H20.11月に連系可能量を100万kwとされている
風力発電の稼働率は20%-30%、25%とすれば約16万kw程度。送電線が送電可能以上になると風力発電解列枠により発電停止にされるので実際はそれ以下。発電総量は川内原発一基の約2割程度。

表は九電のホームページから集めたデータだが、それを見ればいかに電力会社は自然エネルギーに消極的か分かる。一言で言えば、電力独占が崩れるのを恐れているからである。「泥棒にも3分の理」と言うが、何故そんなに風車建設を認めないかの口実はもちろんある。風車のように変動する出力では、安定供給が困難で、送電線の負荷が掛かりすぎる恐れがあるから、と言うのが最大の理由である。樹木は養分が幹からだんだん細い幹に分かれ葉にたどり着くように、大型発電所からの電気は巨大送電線からだんだん分散して、最後は街頭街頭の電線から各戸に供給されている構造だ。電力独占の立場ではこのように中央集権型の構造が有利なことは明らかである。いわば大型発電所が支配者なのだ。そうした構造(いわゆる現実)になじまない風力発電をできるだけ排除したいという話である。

地域分散型エネルギーシステム

最近よくコマーシャルで「スマートグリッド」という送電網のことが出る。この言い方はオバマのグリーンニューディール政策からそのままとっている。電力を中央から末端へ供給という構造でなく、発電と消費が網のように互いに繋がった構造である。風車発電や太陽光を使うにしても、安定供給を確保するためにコンピュータ管理、蓄電装置など様々な新技術を想定して実現可能であるかのように思える。つまり、未来技術扱いなのだ。

デンマークは自然エネルギー先進国だけでなく、地域ごとの小規模コジェネレーションで5割以上の電力が賄われている。地域ごとにあるコジェネレーション施設、風車などが互いにつながり、全体として余剰電力や不足分は互いに補われる構造である。原発は発電量の2倍のエネルギーを温排水として海に捨て、海生物も殺している。原発は消費者から離れた遠隔地だし、放射能が捨てられているのでその温排水使えないが、地域コジェネレーションではその温排水も配送し暖房などの熱源に利用できる。現在、多くは天然ガスを使用しているが、バイオガスに移行はすぐにも可能である。

「原発反対、自然エネルギーを」というワンパターンでなく、エネルギーによる中央集権を支える構造がより根源的問題だと思う。現在、ガス会社が家庭用コジェネレーションを製品化している。燃料電池がベストだが、ガスエンジンでは発電効率は大型発電所より低いが充分可能なのだ。温排水が暖房など(夏期には冷房にも)に使えるので、総合的効率はどの最新型大型発電所より高い。現在、電力会社はデンマークの二の舞をしたくないか太陽光発電以外、余剰電力を買電しないので、稼働率が限定され、コストも下がらない。もし国が、省エネ、CO2削減のためを真摯に考えているなら、政策としてコジェネレーションの買電をさせるべきなのだ。

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