皮膚の理解力(稲垣尚友)
昭和四十九年七月八日(月)(旧暦五月十九日) 晴れ PM9:15 放送者・日高利夫
「オソメさん、オソメさん、電話です。オソメさん、電話です。中島オソメさん、電話口まで急いでください。」
『平島放送速記録(一)』(NJS出版)
トカラの平島に一回線だけ電話が通じている。夜ともなると、その一台の電話に島外に散っている各地の親戚縁者がかけてくる。中島オソメは、オーニワのガジュマルの高枝に括りつけてあるスピーカーからの呼び出しを耳にして、急いで電話機が設置されているミチバタ(屋号)へ走った。
通話を終えてわが家に戻る途中のオソメバアが、タテミチを上の方に向かって歩いていた。旧暦の十九日の月の出は遅く、照らし出される家々の佇まいは薄闇の中にあった。反対方向から近づいてくるわたしに気づいていないようだ。バアは棒のような光を前後左右に揺らしている。腕の振りがそのまま、懐中電灯の動きとなっていた。わたしが闇の中から声をかけると、バアは驚いたふうで、光線をわたしの顔に突き刺した。その仕草にはなんの遠慮もない。わたしはまぶしさに瞼を閉じる。心の中で、「明かりを下に向けんか!」と叫んでいた。立ち話を始めても、わたしは相手の顔をまともに覗うこともできない。わたしは思いあまって、「まぶしかで、電灯を下に向けんか」と、苛立ちをあらわにする。バアは素直に光線をずらした。
バアは弾んだ声で通話の内容を一方的に語り出した。話し終えてせいせいしたのか、つなぎになるあいさつもなく、さっさと歩き出した。「きょうは、良ううつっちょたなあ」と、嬉しげな声を後に遺す。「電話口の相手の声がよく聞こえたなあ」という意味である。
昭和三七年に敷設された海底ケーブルで、本土との電話回線が繋がったが、天候に左右されるためなのか、雑音がひどくて聞き取りにくい日もあった。そんなときには、通話者は受話器に向かって大声を出す。「オガ(わたしの)声がうつっか?」と、確認をするのだった。この放送時の前年である昭和四十八年に、ケーブルでの通話が無線に換わってからは、音声が安定しているが、オソメバアはいまだに昔日の思い出が記憶に残っているようだ。
わたしの耳には、この「うつる」が新鮮に響いた。トカラの島々に隣接する区域でも「うつる」は使われている。南の奄美大島群島の中にある喜界島では「理解する」「わかる」の意味がある。その南の浮かぶ徳之島でも、それから、鹿児島本土の広い地域でも同じように、「話の内容が頭に入る」意で使われている。この「うつる」を漢字で表記するとどうなるのか。「写る」、「映る」、「遷る」、それに「移る」が考えられる。他にも適当する表記があるのかも知れない。
*
話がさかのぼるが、わたしは昭和四二年の一月から二月にかけて、トカラ諸島内の中之島にいたが、在島中に同島東区寄木(よりき)に住んでいる藤井清彦(せいひこ)という老人の奏でる蛇皮線の演奏を録音したことがある。奄美大島の島唄を吹きこんだ。録音の目的は、大島の主邑である名瀬市(現、奄美市)に住んでいる娘夫婦(かえ子と正吉)に、録音テープを届けるためであった。
清彦小父(ジイ)は諏訪之瀬島の出身で、十島村内の島々で教師をしていた。戦前から戦後にかけて、口之島、臥蛇島、平島、諏訪之瀬島、それに悪石島で教鞭を執っている。文部省の認可する免許を持っていなかったためか、村内から離れることはなかった。つまり、赴任地を村内だけに限定した免許のようなものがあった。これは昭和四十五年時点でも存在していた。身分は助教諭である。そのことと関係があるのかないのか、ジイは長年の勤務にも拘わらず、年金が支給されなかった。なぜなのか、親族は不審がっている。
清彦は、藤井富伝の養子である乙次郎の子である。富伝は、激しい火山活動で無人島になっていた諏訪之瀬島を、仲間とともに六十余年ぶりに興した人である。その開拓の苦労話を文字に表した人がいる。笹森儀助である。
津軽藩の藩士であった儀助は憂国の士を自認し、辺境の防備に心血を注いだ人である。北は千島、南は八重山を検分して歩いた。大陸にも渡っている。東清鉄道の車中では、偶然にも、石光眞清と遭遇している。この人も国を憂えることにおいては人後に落ちない。日清、日露の戦役では軍事探偵として働いていた。
儀助にはそんな前歴があり、四年間だけではあるが、奄美大島の島司(とうじ)、現在の支庁長役を勤めている。その任期中に訪ねた諏訪之瀬島で、富伝の業を知り、感涙ひとかたならぬものがあった。大島に帰ってから、ただちに賞勲局にかけあって、金一封(五百円)と銀杯ひと組が富伝に下賜されるように働きかけた。
わたしは清彦ジイの演奏を録音したテープを携えて、中之島から南へ向かった。最終的には名瀬を目指していた。途中の諏訪之瀬島に寄る。録音を披露する機会があり、集まった数人に聞かせた。全員がジイと面識がある。前田アグリという老婆が、畳に置かれた録音機にかぶさるようにして聞き耳を立てていた。聞き終わってから、周囲の者たちの勧めもあって清彦ジイに声の返信を吹きこむことになった。バアはさらに腰を曲げて録音機に顔を近づける。握りしめたマイクに口をもっていく。「ジイ、清(せ)ッコジイ」と呼びかけてから、しばらく録音機を見つめていた。もう一度、「清ッコジイ!」と声を高める。声が返ってこないことを確認しているかのようだ。
さほどの間を取らずに話しかける。ジイの声が懐かしかったことや、いま自分はヤギの草を刈っての帰りだということを伝えた。最後に、「清ッコジイ! 元気にしもれよ(元気にしていてくださいよ)」、と大島語で締めくくる。大島語がここ諏訪之瀬島の日常会話語である。ほとんどの開拓者は、富伝を初めとして、奄美大島赤木名部落の出身者だからであった。バアは話し終えてからも、しばらくは視線を機械からはずさなかった。
わたしは、その島を後にして、西隣りの平島へ渡った。ここでも、清彦ジイの蛇皮線を再生した。宿を世話してくれた福之助氏が何回となく再生を所望する。わたしは、飽きないのだろうか、と自分の感覚で相手を測った。日ごろ娯楽というものに縁が薄いからだろうというのが、わたしがその場で思いついた結論だった。
暗くなりダレヤメ(晩酌)の時間となった。ほどなくして、電気が灯った。主人はまたも録音機の操作をわたしに依頼する。当時の録音機は携帯用のものといっても、ミカンを入れる段ボール箱の三分の一の体積がある。重くもある。また、単一電池を四本直列につないで五号リールを回していたから、電池を新たに仕入れる手持ち資金も事欠くわたしは、再生が重なるたびにハラハラしていた。電源があれば、コードをソケットに差しこむことができるから、電池を消費しないですむ。点灯の瞬間、わたしは救われた思いだった。
主人が突然立ち上がって、縁側にあるマイクにスイッチをいれた。主人は役場駐在員であったから、家に放送機器が常備されていた。何の前触れもなしに、「これは藤井先生の大島節です」と、それだけ告げると、マイクを録音機に近づけて、板縁の上に置く。ボリューム一杯にあげた蛇皮線の演奏が、オーニワを覆うガジュマルの高枝にくくりつけられたスピーカーから、部落中に流れる。
いくらもたたないで、手に手に陶器製のカラカラを提げて、男たちが福之助宅に集まってきた。「こしこの人間が集まるちゃあ、久(ひさ)かたぶりやなあ」と、主人は機嫌がいい。すぐに消灯時間となったが、ランプの薄明かりの下で車座になる。脇には変わらずにリールが回っていた。男たちはわたしに焼酎を勧めながらで、「良かもんを聞かせて貰ろうたわい」と、礼を言う。カラカラの中には自家製の芋焼酎が入っているから、注がれる焼酎の味が家々で異なっている。
平島の人は物怖じしないという評判が近隣の島々に知れ渡っている。宴が始まると歌が出る。それに合わせて踊り出す人もいる。大島節の中には「六調」という早いテンポの歌も入っていた。南国ルンバの異名をもつこの歌は、南島人の血を騒がせるのであろうか、激しい踊りがつきものである。平島には多くの大島出身者が入って来ているから、当然のように、ひとりやふたりが立ち上がって、手踊りを始めるのだが、このとき、誰もその気配を見せなかった。座ったまま黙って聞いていた。ひとりの青年など、目頭を押さえていた。清彦の実子で、幼少時に親元を離れ、この島に養子として渡ってきた人である。
録音の最後の、諏訪之瀬島のアグリバアが吹きこんだメッセージの段になると、バアの噂が始まった。つい何ヶ月か前に、二島の小中学校の連合運動会が平島で開かれたのだが、そのとき、バアもやって来た。二島の学校は、本校と分校の関係にある。それで、ハシケ舟に先生や親たちも同乗して、応援と交流を兼ねて海を渡って来た。バアのひょうきんな性格は皆の人気者になっていた。テープから、「清ッコジイ! 元気にしもれよ」の声が流れると、車座の皆は米搗きバッタのように、うなずくのだった。
実は、平島にも清ッコジイがいて、近ごろ連れ合いに先立たれ、気落ちしていた。バアがそのジイを励ましていると、皆は受け取ったのである。同じ清ッコジイでも、こちらは日高清彦である。あちらは藤井清彦である。わたしは、その違いを説くのであるが、誰も本気で聞いてくれない。「アグリバアも、関心やなあ」と、日高清彦を元気づけるバアに讃辞を送ってやまない。
また。奏でられる大島節が、名前も知らない人のものであれば、青年たちは踊り出しもしたであろうが、自分たちが直接教えを受けた恩師のそれであれば、音の便りとして聞いていた。
ここで、音曲の伝わっていく経路を整理しておくと、まずは、中之島在住の藤井清彦がテープレコーダーに録音した。次に、諏訪之瀬島のアグリバアが、藤井清彦の音曲を声の便りとして聞き、その返信を録音する。返信は途中で平島の青年たちが聞くことになった。そこでは、音曲と同時にバアの声の便りも披露された。アグリバアの立ち居振る舞いまでが眼前に現れたかのように、数ヶ月前の面会時を思い起こすのだった。まるで、音声を肌で知覚しているような噂話が飛ぶ。メッセージは、清彦違いであるというわたしの説明をはねのけて、自分たちの島にいる清彦へのそれとして聞く。「藤井」という苗字を冠してのバアの呼びかであったならばいざしらず、「清彦ジイ!」だけでは、手で触れる距離にいる「日高清彦」しか頭には浮かばないようだった。
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このときの記憶がわたしの頭から離れない。それから数年後に、わたしは平島の住人になっていた。妻子を抱えて一戸を構えていた。夜、近くの独居老女が風呂を貰いに来た。風呂上がりの茶飲み話の中に、NHKテレビで放映している「ふるさとの歌祭り」という番組が話題になった。その老女は、「おばさんたちは、みんな分かっちょっと」と言い切るのである。島では、どんなに高齢であっても、自分のことを「おばさん」とか、「バア(小母)」とかいう。けっして「ばあちゃん」とか、「ンボウ(婆)」とは言わない。そのバアは、番組に出演する地元の人たちの心の内が理解できる、というのである。聞いているわたしは、ひとり取り残されたような感覚を味わった。
わたしはというと、はなから放送をヤラセと決めつけている。企画するプロデューサーの姿勢からも、そのヤラセに乗せられる地元の人たちからも臭気を嗅ぎとっていた。日ごろは身につけもしない郷土色をどぎつく出した衣装や、笑いをとるために用意された土地コトバが安物の演芸に見えてしかたがない。
斜に構える視聴者のわたしと、ヤラセをほしいままにするプロデューサーを蹴散らすようにして、電波の向こうの地元人とバアは交信しているのだろうか。それはちょうど、アグリバアが録音機を凝視している先に、「清ッコジイ」の実像を結んでいるようなものかも知れない。途中の回路を一切取っ払うことができるのだろう。その「清ッコジイ」を平島の青年は、実際に触れることのできる同名の「清ッコジイ」として受け取る。録音機という機器の機能を飛び越えて、皆はそれぞれに対面しているのである。わたしには到底受け入れられない感覚である。
路に迷い込んだ中で、『古事記伝』の著者である本居宣長を思い出して、ひもどいてみた。「上(かみ)つ代の事(こと)や意(こころ)を知りたければ、上つ代の言(ことば)で表すべきである」と言う。バアやジイたちの心を知りたければ、バアやジイたちが使うコトバの背景に立ち入りなさい、とある。バアたちが日常に使っているコトバは、わたしにとっては過去のものとなっているのであろう。後世のひとであるわたしは、後世の価値判断で過去を論じてはならない。
宣長は続けるのだった。「わが国の上代のありさまを記すに、異国のコトバをもってしては伝わらない。漢文を借りるほかに表現の法がなかったのはやむを得ないが、まずは、漢字の習(なら)気(い)(=潤色)を洗い去(すつ)ることこそが、古学(いにしえまなび)の務めである」、とある。プロデューサーのコトバを捨て去ることから始めなければならない。わたしの先入観も邪魔である。
『古事記』の中に出てくる大国主(おおくにぬし)神には五つ別名がある。そのひとつに顕国玉がある。宇都志国玉とも書く。これの読みは「うつしくにたま」である。「現実の国土の神霊」が、「目に見えるように、はっきりと現れる」ことが、「顕(うつ)る」の意味で使われている。
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話が洋の西に飛ぶが、フランスの詩人であるポール・ヴァレリーの文章にこんなのがある。
……パガニーニは他のヴァイオリン演奏家たちが練習するようには決してしなかったと、私は本で読んだことがあります。演奏会の前に彼がヴァイオリンを弾くのを嘗って聞いたためしはないという。或るイギリス人が彼の芸の秘密を知りたいと思って、彼の演奏旅行中行く先々の町について行った。旅館の主人を買収して、ホテルで自分の部屋とパガニーニの部屋との境の扉に、穴をあけた。そのつど、彼は耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。(中略)彼は窓と鎧戸を全部閉めきって、自分の寝台の上に長々と横たわる。それだけだったという。(中略)彼は楽音を、音符さえも、(中略)聞いていたのです……
(佐藤正彰訳・ポール・ヴァレリー『生理学についての講演』)
パガニーニは網膜に焼き付けられた楽譜を奏で、その音を聞いていた。その反対に、奏でた曲を網膜というスクリーン上で音符として見ることもする。他人には無声としか思えなくても、パガニーニには、音が「うつって」いた。
わたしは、ヴァレリーの文章を目にしたとき、あの文豪のトーマス・マンが、指揮者のフルトヴェングラーと生涯和解できなかった原因の一端をかいま見た思いだった。ナチに追われて、亡命生活を強いられたマンは、ヒトラーの生誕祝賀祭で指揮棒を振るフルトヴェングラーが受け入れられない。フルトヴェングラーとしては、国内にあって”亡命生活”をしているようなものであった。ナチの宣伝として利用されていようと、自分の音楽はドイツ人の聴衆があって始めて意味がある、と考える。
そのことはマンも同じだった。自分の作品はドイツ人が読んで始めて価値があるとみた。だから、最初に亡命したときもそうだが、戦後アメリカから再びスイスに戻ってきたときも、フランス語圏やイタリア語圏を避けて、ドイツ語圏の居住に固執した。
フルトヴェングラーは”国内亡命”していたといえるひとつのエピソードとして、友人を演奏会場の地下の廊下に導いて、国外亡命の手助けをしたこともある。楽団員の中には多くのユダヤ人や半ユダヤ人がいたが、それらの団員たちをナチからの迫害から護るために、身を粉にして闘っている。自身も身分証明書を取り上げられて、警察の監視下にあったこともある。ベルリンが陥落する四ヶ月間に、ついに命の危険にさらされて、ウイーンでの演奏会の後、ベルリンへ戻らずに、夜汽車を使ってスイスへ越境した。終戦も国外で知るところとなった。
戦後、フルトヴェングラーはマンに面会を一度ならず申し出るが、拒否される。ふたりにはあまりにも共通の認識にあふれているにもかかわらず、逢うことすらできない。ワーグナーを共有し、ドイツ語とドイツ人を手放そうとしないふたりであった。書簡の交換もくり返されたが、面会はかなわなかった。おもしろいことに、ワーグナーはナチスの先鋒を務める作曲家であったが、そして、未亡人はゴリゴリのナチ党員として活躍したのだが、マンもフルトヴェングラーも、そのことには触れていない。
この交換が音(音楽)と文字(言語)とであったなら、どうなっていただろうか。文章家が文章で自分を表現したものを送信し、それを聞いた音楽家が音楽で返信したならば、誤解はより狭まったかも知れない。むろん、マンは音楽を聴く力のある人である。フルトヴェングラーは達意の文章家である。
これは夢を語っているのではない。文章家のなかには、自身の作品を「これは純粋な音楽なのだ」、と言い切る人さえいる。和田亘(あきら)氏の著した『音と言葉のはざまで』(芸立出版)でそのことを知った。「ジェームス・ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』は、(自身が語るように)、過去からの重苦しい意味の累積から解放された言葉が、そのもっともオリジナルの意味を回復して、大規模な神話と歴史の枠組のなかで自由に躍動しているかのようである」。「六万四千語におよぶ語彙の八割までが、ただ一度だけしか使用されていない。単語のほとんどは造語や合成語、あるいは擬声語や擬態語である。作品のなかでは、日常的な意味レベルの言語は姿を消し、個々の単語のさまざまな語音に付着する微妙な意味の反響が幾層にも重なり合って、感性の理論にもとづく脈絡にしたがいながら進行し展開していく」のだった。
マンとフルトヴェングラーとの間に、オソメバアやアグリバアたちが体得している「うつす」力を、発揮できる場が確保できたとしたら、互いの真意をくみ取ることが可能であったろうか。
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道ですれ違った相手の顔を懐中電灯の明かりで照らし出す行為は、相手にしては迷惑な行為かもしれないが、当人は自分の感情に忠実であり、何の修飾もほどこそうとはしていない。顔をより鮮明に照らし続けることで、相手に触れるのと変わらない皮膚感覚を味わう。それは知覚行為でもある。「顕る」は「映る・写る」に通じ、どれも知覚行為である。「うつる」は、相手の姿がありありと網膜に現れ、「はっきりと相手の心が理解できる」と同義となる。