トップページ / 南島学ヱレキ版 / 2010年7月号 民衆運動としてのデンマーク風車発電(橋爪健郎)
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民衆運動としてのデンマーク風車発電

1 はじめに

デンマークには風力エネルギーを利用する伝統があり、はじめは製粉などの機械エネルギーとして、そして今世紀はじめより発電用がつくられた。70年半ばの石油危機により急速顕著な発展が始まり発電用風車発電として実用化され大型化した。特に工業国として知られているわけでもないデンマークで民衆運動として風車発電がなぜ取り組まれ育ったのかを知ることは、我々が循環エネルギーをいかにして発展させるかという重要な示唆を与える。

1960年代末から70年代は世界的にヴェトナム反戦運動、学園紛争に始まり女性解放、反開発の地域闘争、エコロジー運動等々今日の環境問題を焦点化した市民運動の前史であり、今日の世界的な経済破綻として顕在化した産業化社会の行き詰りを予見した時代であった。それらに共通する一断面は「中央集権から地域分散へ」である。

「保守か革新」あるいは「右か左」かという社会体制の問題ではなくその構造が問われ始めたのである。分散型でクリーンなエネルギーの典型ともいえるデンマークの風車発電の発展の歴史においてその技術面のみを見たのでは理解は困難であり、社会的歴史的背景をふまえた民衆運動史的考察こそがより本質的理解につながることに気づくであろう。

2 民衆運動としての風車発電建設

(1)フォルケセンター

過去10年、世界のエネルギー源で最も伸びが大きいのが風力エネルギーである。その風力エネルギー活用で世界をリードしたデンマークを論ずる時その晋及の中心となったフォルケセンター抜きには語れない。創始者のプレーベン・メゴール氏は1980年代当時の国の原発推進政策を批判して「政府が60万kwの原発一基つくりたいというなら我々はかつてデンマークに存在したという風車の数と同じ3万台の風車発電をつくろう。一台20kwとすれば原発と同じになるではないか。政治家はそんなことは出来っこないと言うかも知れないが、それをやって民衆の力を思い知らせてやろう」と、1983年、反権力の土壌の強い北西ユトランドにフォルケセンターを創始し、町工場の職人ともに風車発電の製作を始めた。

(2)技術の開放性

歴史的に新技術の起源はアマチュアの創意工夫から発する場合が多いが、それを受け入れる社会的土壌が存在することが育つ条件であろう。デンマークの場合、19世紀半ばグルンドヴィ Grundvig に始まるデンマーク民衆の自己教育システムであるフォルケホイスコーレ(Folke Hoje Skole)運動が民衆の利益をまもり、文化を育てる社会的土壌をつくっている。そしてフォルケホイスコーレ中興の祖ともいわれ風車発電の研究家であり普及活動家でもあったポール・ラクール。そうした伝統なしに民衆の技術としての今日の風車発電は考えられない。例えばデンマーク社会では民衆が自主的にやることに国が援助しなければならない。フォルケセンターはまさに現代の風車発電フォルケホイスコーレである。開発に伴うノりハウは全て公開され、素人でも町丁場でも作れるような設計図を安価で手にいれられた。80年代の初期には50kwの風車が、ついで150kw、80年代の終わりには250kw、計200のタイプを開発、中小のメーカーが製品化普及させた。ついで525kw風車が、最近は1000kwクラスまで実用化されている。今日フォルケセンターはデンマーク国内の活動にとどまらず、ヨーロッパひいては世界的な循環エネルギー開発のセンターとして発展し、風車発電はもとより太陽熱利用 バイオガス、エネルギーボックスなどの総合的な研究開発の中心であることは知られるとおりである。

(3)民衆の技術――失敗した国家プロジェクト

一方において国家プロジェクトであるアメリカやドイツの巨大風車開発の試みは全て失敗に帰し解体撤去されている。風車発電は不可能であるという実証試験を国家予算でやったようなものである.デンマークも政府サイドのECの援助で2000kwの大風車発電所を建設したが、解体撤去こそ免れているものの稼動率は予想より悪いという。新しい技術は巨大で多額な費用をかければ育つというものではないことが風車発電では実証されたのである。

民衆によってつくられた風車は民衆のために役にたつ。1980年、kw/hあたり1クローネであったのが、1988年には0.3―0.4クローネに、1990年代には0.2―0.3クローネと石炭火力とほぼ同程度に下がってきた。個人所有の風車発電は売電により数年でもとがとれ、資産家としての投資の対象としても魅力的なものとなりえた。

だが投資家にとっての単なる投資の対象にはできない仕組みになっている。創生期である風車発電をめぐる諸制度は恒常的なものではないが、80年代、風車を個人で持てるのは敷地内に立てられる農家に限られており、個人が持つ場合、風車から10km以内に住んでいなければならないとされた。風車で賄えるのは基本的に自分の使う電気だけとなっている.例えば150kwの風車で50から100世帯分の電気を賄うことができるが、協同で所有するという協同組合の形態をとらなければならない。もちろん電気が使いきれず余れば電力会社に売電することにより収入とすることができる。デンマーク社 会を理解するキーワードの一つはANDELS(協同)というが、社会の仕組みとマッチしているわけである。デンマークの税制は所得格差を少なくすることにつながり、社会的上下の階層を大きくしないことにもつながっているが、風車発電の所有形態一つをとっても平等で民主的な社会を守ろうとする民衆の創意をうかがうことができる。もちろん、個人所有風車への投資家の参入で電力独占が破られることを嫌う電力会社の有形無形の圧力も働いているので、そう単純に考えるわけにはいかないが。

年々風車発電の規模は技術革新と共に大型化していくが無前提に風車の規模が大きくすることが進められているわけではない。フォルケセンターではECの援助による525kw風車の開発に際しては議論がでた。こういうのをつくっても個人か協同で持つには大きすぎ、電力会社しか買い手はない。国の方針や営利のみで動く会社の考えはどう変わるかわからない。もし買い手がなけば「親(利用者)のない子供を生むようなものでないか」と。

3 風車発電普及へ向けて 

(1)デンマーク風車発電協会の設立

マニアの手作りから始まった風車発電であるが、素人の一般市民が所有できる形態となり本格的な普及が可能になった。デンマーク風車発電協会はユーザーの立場に徹して風車発電の普及に貢献するために結成された。設立されたのは1978年5月4日とされている。日どりが5月4日になった理由はデンマークにとってその日がナチスドイツからの解放記念日であったからである。つまり協会にとって闘い続けこれからも闘うべき相手は、巨大で市民にとってしばしばその建前に反して民衆の活動に抑圧的に作用する巨大機構、電力会社や国家であったしこれからもそうであろうことを象徴するからである。
初めは20名の会員からはじまった。 設立の目的は電力会社と政府へ力を合わせて立ち向かうためと、技術的にも未完成で社会の評価もはっきりしてなかった風車発電に関する情報を普及するためであった。 1978年の時点ではデンマーク中で約30名の風車発電の所有者が存在したにすぎなかった。

1974年の第一次石油ショックや1979年の第二次石油ショックのさなか、遠方から運んでくる不安定なエネルギー源より自前のエネルギーを求めて手作りで風車発電製作を始めた者も数多くいたにも関わらず、当時国や電力会社は総体としては風車発電に関して極めて消極的であった。だが、電力会社内部からも風車発電を経済的にも正しく評価しようというものが現れ、徐々に状況が変わっていったのである。

(2)協会のはたした役割

そうした状況のなかで協会が果たすべき役割はまず第一に、風車発電の可能性と限界についての正しい情報の普及であった。良い点を宣伝する者はいても短所を伝える者は誰もいなかったのである。いい方を変えれば風車発電の普及にとって風車発電協会が重要かつ信頼できる情報を流してくれたことが決定的なことであった。そして国と電力に対して共同でたたかうということ、その2点が設立以来の協会活動の基本であり、事実それらの活動が風車発電の普及に最も貢献してきた。

(3)権力からの自由

歴史的に国家や大企業とたたかうための民衆運動としての生い立ちを持つ協会であるので、国家レベルで進められる原発計画に対して市民として国家を批判する自由な意見発言行動が可能である。
1979年3月31日、スリーマイル島事故の情報が次々入るなかの協会第一回設立総会で、会長のエリック・ダビッドソンの基調報告では「このような事故の起こる前に人々が目を覚まさなかったのは不幸であった」とし、「第一次石油危機以来、石炭石油やウラン貯蔵量は制約があることはあまねく知られているのに、それらに替わりうるエネルギーの役に立つ研究や法制度の改善がなされなかったのは驚くべき事である」と述べられている。当時デンマークでも、現在の日本と同じく国のエネルギー政策は石炭や石油をベースにするプランに力を入れ、風力や太陽光については言及するにとどまっていた。そしてそれらによる環境汚染についてはほんのわずかしか言及されていなかった。エリック・ダビッドソンは「このような事故の起こる前に原発の危険性を認識し規制すべきであった」と会員に訴えた。協会は彼の発言により大いに団結心が鼓舞されたという。よくあるように一見多数の賛同者を求め上を見て横を見てあたりさわりのない意見しか述べないというのでは先を見通した発言も行動も困難であろう。一見突出し当座は社会的少数派に甘んじなくてはならないとしても、長期的にはより社会的浸透力があるという一例でもあろう。彼の核に対する見識は、今なお核に固執する日本政府など一部の国を除いて、その後に脱原発が世界的な趨勢となったことで明らかである。

(4)既成権益とのたたかい

アマチュアである風車発電オーナーにとってたたかうべき相手は既成権益の上にあぐらをかく電力会社や専門家達であった。協会の主な仕事はオーナーが風車発電建設に際して電力会社との系統連携にかかわる費用についてであった。初期には電力会社から法外な費用を求められることもまれではなかった。協会はコンサルタントとともにそれらの件を詳しく調査して協会としての適正な価格を提示した。その後無料で認められた例さえ少なからずあったのである。いくつかの電力会社は風車発電に対して追徴料金を課した。やめるようにとの電力料金委員会の勧告を電力会社は無視し、エネルギー大臣が2代にわたって勧告してやっと応じたという。

一般に電気技術士達は風車発電に対して大変好意的であったが、一部の電気技術士は風車発電の運転管理士という肩書きだけでなにもしないで高収入を得ていた者がしばしばいた。協会はオーナーに対してそのような法外な報酬要求には応じないように警告した。一部の電気技術士が法外な支払いを要求したということもあり、協会は1980年ごろ電力ケーブルやメーター計などの現行価格に関する調査を行った。世間一般の通念にのっとり、その仕事量に見合う報酬、現行価格に見合う料金のみを支払うという原則でいくようにさせたのである。さらに運転管理士が風車発電から離れた所に居住していてもかまわないとするように送電線に関する法律を修正するような活動を協会として行ったのであった。これらの電気事業上の法制度の改変に関しては、日本でも家庭用太陽光発電導入の際同様な改変があったが、恐らくデンマークの例などを参考にしたものと思われる。

風車発電など循環エネルギーの普及にとって法制度が未完性という点では大きな障害であった。だが 政治家も概して敵対的で、既成党派を越え左派から中道まで含んだ「グリーン・マジョリティ」に強いられてやっと動くというありさまであった。公的機関や行政も立法議会でゴーサインが出ればそれに従うという常識が通用しなかったのである。

(5)技術の進歩はいかにして達成されるか

ユーザーの立場として風車発電メーカーによりよい品質とサービスと保証を求めて働きかけた。70年代の風車発電の故障率は50%であったが、10年後は1%以下となる。漠然と「技術の進歩が風車発電をより良く安全にした」というより、その陰で協会が取り組んだ人知れぬ努力があったのである。50%の故障率という数字の裏には毎度のことであった暴走事故があった。1970年代には嵐の後どの風車が壊れたかを互いに連絡し合うのは普通のことであった。原因は明確であった。当時のどの風車もスポイラーブレーキがとりつけられていなかったのである。確かに何種類かのブレーキが取り付けられてはいたが、どれか一つのブレーキが故障したとき独立に働く別系統のブレーキが働くようには設計されていなかったのであった。メーカーはそれが原因とは考えず別系統のブレーキシステムの必要性を認めなかった。 協会はスポイラーブレーキなしの風車を購入しないように会員へ呼びかけることにしたのである。半年以内に市場の風車は、個人製作と1年以内に姿を消したメーカーを除き全てにスポイラーブレーキを備えられるに至った。初めの10年間で同様な20件の問題に対処した基準をつくってきたのである。

風車発電に限らず一般に技術の進歩というものはいかにしてもたらされ、なにが阻害するのかという技術的観点でも興味ある歴史である。 それぞれの事実は単純なことみたいであるかもしれないが、こうした決定にいたる過程には協会が問題に対処すべき原則はどのようにあるべきかという長い論議があったのである。協会は特定のメーカーを推薦せず会員へ可能な限り多くの情報を提供してしっかりした土台で判断できるように取りはからう。民主的議論の場が保証されないところでこのような原則にたどり着くことは少ない。初期にのみあり得る普及活動と施工業の一体化から普及の進展に従って両者の適切な緊張を伴った関係へいかに移行できるかが本格的普及への道であろう。

協会の機関誌『NATURIG ENERGI』に月ごと公表される月間のデンマーク国内の風車発電の発電実績の統計は、どのメーカーのどの型の風車が良く発電しどれが良くないかを明瞭にあらわし、来るべき風車オーナーがベストな風車を選ぶための資料となるのみならず、メーカー側にとっても彼らの仕事に対する良い手本であった。それは風車の実用性についての情報を与えることのほかに、メーカーがサービスと保証責任を誠実に実行する有効な誘因となった。そのようにしないとメーカーにとって悪い宣伝材料として統計結果に反映するし、逆に成績の良い風車はメーカー側の手前ミソの宣伝より客観的で良い宣伝材料となる。フォルケセンターの公開性に始まり風車発電協会の発電データなどすべて公開するという姿勢があって、はじめて民衆との対話が可能になり技術が進歩するということであろう。

70年代末から80年代はじめにかけて、RISO国立研究所において様々なメーカーの風車の効率測定が行われるようになった。まだ風車発電の数は少なかったので、公的機関による効率測定の結果は風車発電の選定に決定的な条件となった。RISOはもともとデンマーク政府の原子力開発の中心的機関であったが、風車発電の発展を支持する国民的期待に沿わざるをえなくなったのである。

(6)社会の変革をうながす

風車発電の本格的普及にはこの他、税金、控除、補助金、認可、保険等々差し迫った問題 が数多くあり、それら一つ一つに対処する事により道を切り開いていった。そうした積み重ねがデンマークの全ての体制に徐々に影響を与え、循環エネルギーを受け入れやすい社会へ徐々に変革を遂げつつある。例えば大学の研究テーマとして、持続可能なエネルギーを確立するためには都市計画、住居、輸送、食品産業、ライフスタイル等を含めた社会構造はどうあるべきかなどが取り上げられている。

国家レベルでも化石燃料や原子力(デンマークは原発は存在しないがドイツからの輸入電力には含まれる)依存型から循環エネルギー依存型へ軟着陸させるべく政策転換がなされている。1997年12月に開催された京都の温暖化防止国際会議(COP3)で明らかになったが、EUが日本、米国3極の先進国で環境政策で一番先進的であった理由は、小国デンマークのEU内での絶えざるリードぬきにはあり得なかったのである。

4 あとがき

以上のように、小国デンマークですら新しい試みに関して数々の抵抗が存在し、それを克服するのに少なからぬ努力を要したわけである。大国においてはより既成権益も大きくはるかに抵抗が大きいであろうが、小国で達成された成果を謙虚に学ぶことにより、それも可能であるといえるのではなかろうか。

〈参考文献〉

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Frede Hvelplund, Niels Winther Knudsen, Henrik Lund
Erneurung der Energiesysteme in den neuen Bundelsl?ndern-aber wie?
Aalborg Universitets Center Vorl?ufige Ausgabe 1993

Peter Karone
Dansk Vindmolle Industri
Samfundslitteratur 1991

Niels I. Mayer, helveg Petersen, Villy Sorensen
Revolt From the Center
Marion Boyars Publishers Inc. 1978

Klaus Illum
Toward sustainable Energy System in Europe
Aalborg University Press 1995

Danish Center for Environment and Development
Aalborg University
Review of ongoing research projects 1995

Analyse af danske vindmollers driftsudgifter 1993
Forskningscenter Riso, Roskilde
Oktober 1994

Energy 2000
Danish ministry of energy, April 1990

Energy 2000 - follow up
Danish Ministry of Energy, November 1993

Dansk Energi
Flip Film Production, Copenhagen Denmark

フォルケホイスコーレの世界
清水満編 新評論

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