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風が吹くように(デンマーク電気博物館、橋爪健郎訳)

――政治家たちが風車発電に好意的であるかどうかが風車発電の新たな展開を決めた。政治的な風は常に一定ではないように思える――末尾より

 

ポール・ラ・クールがアスコー・ホイスコーレに赴任したのは1878年であった。それまで彼は既に物理学者として気象学上の業績で広く名をなしていた。さらに電信技術の分野における発明でも知られていた。コペンハーゲンにおける約束されたアカデミックな将来をなげうち、物理学と数学を地域の人々に広めたいという強い思いでアスコー・ホイスコーレでの民衆の啓蒙活動への道を選んだのである。

1891年にポール・ラ・クールが風車発電の研究を始めてから100年たった。デンマークでは彼の後からも多くの優れた人たちによってひき続き進歩がなされ風車発電では常に世界のリーダーであった。

戦争やエネルギー危機、国の援助があったことなどは多少なりとも風車発電にとって有利な向かい風であったかもしれないが、なんといっても1980年代がデンマークにとっても国際的にも風車発電にとって大きなターニングポイントとなった。その10年間にデンマーク国土に3000台の風車が建てられ、6500台が輸出されたのである。ポール・ラクールから100年、世界の45%の風車発電はデンマーク製である。

風車=昔からの助っ人

ポール・ラ・クールが風車発電の研究を始めた頃、既に風車はデンマークの景観の一部となっていた。風車は少なくとも1400年代にはエネルギー源として活用されていた。1700年代まではポスト・ミル型の風車(左上図)ばかりであったが、次の100年間でオランダ型が優勢になりほとんどとって替わられた。

前世紀の終わりには約8000台近くの風車が存在したと推定される。ほとんどは穀物をひくためと製材用であった。その頃、風車は穀類や小麦をひく臼(ミル)と事実上一体の物と考えられていたが、ラ・クールは発電用のエネルギー源としての道を開いたのであった。

1891年にポール・ラ・クールが風車発電の研究を始めた頃、デンマークの農業は急激に発展しつつあった。今までになく新しい事業に投資が行われた。風車に対しても同様であった。それは従来のオランダ型風車の建設ということではなく農業用のより小型の風車へ向かった。比較的安価に手に入れることができ、揚水などさまざまな使い方ができたからである。大型のオランダ型風車は町に新しくできた大型の蒸気機関にとって代わられつつあった。農業用風車も同様であったが、小型風車のみが蒸気機関と競合できた。それはもっぱら製粉用と新しく購入された脱穀機用に使用された。オランダ型と比べてより小型であったし、比較的安価に入手でき、揚水など様々な用途に応用できたからである。そのころ正確な調査が行われたわけではないが1920年代には約2万台から3万台の農業用風車が存在していたと推定される。

風車発電として

風車の問題点は今日と同じで、風の吹く日にしか使えないことである。ラ・クールは電気を民衆が使いこなすことができるように数多くの実験や試験を重ねると共に、風を捉え電気に変えるアイディアを考案した。

デンマークでは1891年にコーエで最初の発電所が公営でスタートした。まもなくオーデンセ、コペンハーゲンやそれらに続く大都市があとに続いた。1890年代の頃、受電する顧客はわずか数千であったであろう。そのころの直流送電技術では顧客が発電所近辺に居住していないと電力を安定に供給する事が出来なかったし、経済的にも成り立たなかった。小さな田舎町や分散した農家などにとって電化などは遠い夢物語であった。
アスコーホイスコーレのポール・ラ・クールをのぞいては・・・。

デンマークのエジソン

1891年にラ・クールは最初の実験用風車をたてた。木造の建物の屋上に高さ11mの塔を建て4枚翼の帆布製の風車がすえつけられた。建物は8×5mの広さで風車室と実験室に仕切られてた。帆布製の翼はまもなく変更されて、風に応じて傾いて角度が変わる羽根板に変えられた。強風時には羽根板は風に対して平行(フェザリング状態)になり、風は翼を素通りしてしまうのである。つまり風車は自己制御されるわけである。

ラ・クールの最初の発明は不安定な風から一定の出力を得る調速装置<<クラトスタット>>であった。それはとても応用が広い装置でラ・クールは風車だけでなく、水車や蒸気機関向けへの特別仕様にまで改良した。後者は特許をとり製品化された。1892年にラ・クールは<<クラトスタット>>の発明ですでにデンマークのエジソンと呼ばれていた。後になって類似の調速機が既にアメリカで1840年に特許をとられていたことがわかったが。

水素で風を蓄える

ラ・クールは電気を蓄えるために高価な蓄電池以外のものが欲しいと思っていた。彼はイタリアのポンペオ・ガルティス教授が新しく考案した電気分解の装置が安価にできる解決策だと考えた。電気が水の中を通るとき電極から水素と酸素が発生する。新考案のランプで燃やせば水素酸素混合ガスはきわめて効率が良かった。ラ・クールは学校に水素ガスによる照明システムをつくる構想をたて、ガルティスの会社と契約した。ところがそのイタリア式の照明装置はテストの結果全く不完全であるとわかり、ラ・クールは多くの改良をし続けなければならなかった。水素と酸素という爆発性ガス研究の苦労の一端を当時の金銭記録簿でかいま見ると『爆発による窓ガラスの修理費8.55クローネ』という具合である。

水素ガス照明は1895年11月1日アスコーホイスコーレで初めて灯った。厳しい安全規定で爆発災害から守られねばならなかったが、システムが稼働した7年の間にはそうした大事故は何も起こらなかった。このシステムの一番良い点はなんと言っても安いことであった。実用化された電気分解装置と水素ガス貯蔵容器の費用はわずか4000クローネであった。一方、同能力の蓄電池は3万クローネ以上した。

アスコーホイスコーレでの研究が続けられた。彼の主な関心は理想的な翼型を見つけるための空気力学的研究と電気分解の研究を継続することに分けられた。

国が援助

ラ・クールは上記のプロジェクト、すなわち私たちの最も大きな自然のエネルギー源である風を征服し手なずけ活用するという計画で1891年最初の国の補助金を得ているが、1896年度もラ・クールは補助金を得た。今回は施設建造費として2万7千クローネ、年間の施設運営金として1万2千クローネであった。新しい研究用風車をつくることになった。建造にあたって技術者協会からの有益なアドバイスもあった。人々は国中に電気を普及するためのラ・クールの研究を大変重要なものと理解し予算の内容を受け止めた。グルンドヴィ教会をつくった後世高名な建築家のP。V。ヤンセン・クリントも風車の設計にかかわったのである。

施設は1897年から98年の新年に完成した。全体に集中暖房、電灯が備えられ、水の電解装置、風車制御室、研究室、各種の装置や機械が備えられた部屋があった。ラ・クールは施設運営資金のおかげで学校の講義はほとんど免除された。常雇いの風車管理役と必要に応じて変わるアシスタントがいた。多くの若い工科系学生が国中から馳せ参じて電気工事の支援にたずさわった。さながらラ・クール夏期応援隊のようであった。

風車研究は多岐にわたった。既に述べたような水電解技術の研究と平行して例えばソーダ、カーバイト等々の化学産業、水素ガスによる溶断、溶接技術、化学肥料の生産などの新しいプロジェクトとしてひろがった。

一連の発明による特許でラ・クールは国内外の企業と契約して利益を得られるのではないかと期待したようだが、その面では彼はたいして幸運であったとは言えない。

実用化の要望

ラ・クールは風車の技術的な面に関して「風車研究」として4分冊にわたり書き記している。それらは1900年と1903年にだされた。それらはベーリング・ジャーナルの1903-17/9に詳細にわたって掲載された。

誰も考えもしなかったことだが1900年からラ・クールが政府援助金の獲得のため闘わねばならなくなった。政治家達は風車発電が国の将来の構想として妥当であるかとうか疑問を持ったのである。批判は新急進派の指導者C・T・ザーレンによってなされた。政治的論争は数年先まで続いた。ラ・クールは農民派で急進派に対して受け身であった。国の補助は削減され研究は農場の電化への応用にのみ絞られた。だが反面では今や既に実験風車発電から有用な成果が得られたと考えても良かったかもしれない。1902年に実験風車発電はアスコー町の発電所として完成した。必要な機材はAEGより調達された:蓄電池は最大73kwh蓄電でき、6kwの発電機が2台、加えて風がないときが続いた時のために12馬力の石油発動機が備えられた。主な動力源は風力である。

風圧を平準化するクラトスタットは一軸の滑りベルトのシーソーギヤに単純化された。「ラ・クールの鍵」は風のない時にバッテリーから発電機の方へ電流が逆流するのを防止するための改良された安全装置である。

協同組合運動を模範として

いわゆる1901年の政治改革で地域住民は強力な左翼政党を通じて持つ力に自信を持った。地域の人々はもはや都市に支配されている社会層として甘んじていない。電気に関しても都市の人が農民に売って儲かると言う時になるまで地域の人々は待たない。協同組合運動とその精神が大変高揚していた。1882年の最初の協同牧場の発足以来非常に盛り上がったのであった。20世紀初めの酪農、屠殺、消費者組合等々全てのデンマーク農民の協同組合組織は拡充され、農民の政治的経済的地位の向上に決定的な役割を演じた。協同組合運動の精神は日々の労働の賃金の上昇、や同時に都市からの独立を保証するものとしても広がった。ラ・クールと他21名がデンマーク風車発電会社(DVES)を1903年10月28日に発足したのはそうした時代においてまさに自然の成り行きであった。農民は協同組合運動を通じて大きな進歩をなすことができるとラ・クールは確信していた。酪農家が計画しているような蒸気機関の煙突軍団が林立するのでなく、それに代わる風車発電の軍団が我が国土に立ち並ぶことを望む<<(協同組合新聞1906・953頁)

風車会社の起草文にはこう書かれていた。名称はデンマーク風車発電会社と称しアスコーに本社を置く。風車発電に関する指導を行うことを基本とし、それに伴う全ての啓蒙活動を講演、文献やセミナーを通じて行う。

ラ・クールが1908年に死ぬまでDVESは約60の小さな発電所の産婆役となった。DVESの主な役割はいわゆる農村用風車発電の普及につとめることであった、農家や同様に大農園向けの個人用風車発電も手がけた。これらの発電所は電灯や動力を望んでいても近い将来に大型の発電所からの供給を受けられる見込みのないが、ぜひ欲しいという積極的な農民によってつくられた。後になって協同組合がより大きな発電所をつくって地方の町や都市に電気を供給できるようになったが。

地域のための電気技術者

小規模発電所建設コンサルタントとしてのの仕事を越えてラ・クールとその支援者は新しい電気技術者の養成も引き受けた。1904年に最初の「地域のための電気技術者養成講座」がアスコー・ホイスコーレで始まった。講座は4か月間で12名の若者が最後の講座で試験に合格した。皆が単に卒業証書のためだけでなく良く努力した。卒業証書は電気技術者として仕事をする際に必要な証明証としてもちいられる。

「そのような技術者を我々の中に持つことは重要である。我々はコペンハーゲンやその他の都市に依存することができない。彼らの言うことはいつもくるくる変わっているから。」

1916年会社が解散するまで多くの若者が地域の電気技術者としてアスコー・ホイスコーレから巣立っていった。ある者は電気管理技術者となり、ある者は地域のための電気設備工事者となった。啓蒙活動は会社の活動にとって必須であった。特にラ・クールは地域に足を運んで風車発電と地域の電化について語った。地域農民は社会の従属的な地位に甘んぜず闘わなければならないと熱っぽく説き、もし地域の電化がなければ巨大で威圧的な蒸気機関により地域の産業は壊滅させられるであろうと彼の考えの構図をわかりやすく語ったのである。過疎化に悩んでいた農村にとって電力と風力は必須で"我々民衆のため安くでやってくれる助っ人"であった。

「死刑宣告」された風車発電

ラ・クールは以下に述べるような単純な楽観主義者ではなかった。

>>よく聞かれる質問であるが、「なぜ彼は風車発電を生活に取り入れることにそんなにも深い理解と関心を終生抱いていたのだろうか?」。私たちはラ・クールにとってそれは名誉な質問であると思う。かつて"デンマークのエジソン"と称された彼はただのホイスコーレの教授と見なすわけにはいけない。彼は風車発電だけでなくこの国に大きな未来があると信じていた。彼の人を鼓舞する並はずれた才に加えてこの精神こそがまぎれもなくいったん死刑宣告された風車発電を再びよみがえらせる力となるのである。<<

(電気技術誌1905-06page73)

事実としては1905年にこの雑誌の記事を書いた編集者とラ・クールが同じ考えを持っていたわけではなかった。ラ・クールの実像は少し違う所にあったのは確かなようである。数ヶ月後にラ・クールは彼の見解を発表している。それは85年以上もたった今でも通じる視点である。

ラ・クールは風車発電だけが唯一のエネルギー源だと考えていたわけではなかった。当時大型発電所は石炭を用いた。それは当時のデンマークでは経済的であるとは言えなかった。都市の発電所は1905年当時直流発電が普通であった。地域への電力供給という観点ではそれは技術的に不利である。発電所から4キロ以上離れると電圧が規定以下に落ちるからである。この点ではラ・クールは正しかった。都市の発電所でも市街地を越えた郊外に送電しようとすれば交流方式に変換する以外道はなかった。

ディーゼル機関が風車発電をうち負かす

1920年でもラ・クールの夢であった地域農民の電化は未だ遠かった。全農民の1/5しか電化されていなかった。だがしかし最近の外国の研究によれば「デンマークは他のどの国より地域の電化の速度が速かった」という。1978年のルーカスの研究によれば今日のある一部地域よりも当時のデンマークの方が電気技術の進歩が速かったという。

外国の経験によれば大電力会社と地域住民は電力の配電網への接続の問題でしばしば対立関係にある。デンマークでは特にラ・クールのおかげでそのようなマサツは大方において避けることができた。社会が中央集権的でなく分散型であることが地域農民に電気を受け入れやすくしたのである。ラ・クールの仕事とデンマーク風車発電会社の設立は電気の普及に直接的に大きな意味を持った。風車発電自体はより小型のディーゼル機関の発達により数年のうちに駆逐されてしまうが。

近代風車発電――古い酒を新しい革袋に

近代風車発電に目を向ければ、多くの点でラ・クールの時代からの風車発電建造の研究成果が生かされているのに気づくであろう。風車発電はアスコーでの最初の研究以来変転の歴史であった。2度の世界大戦時の化石燃料の欠乏は風車発電の再興の期間であり、技術が発達した時期が存在した。だがこの一時的な発達は全体的な風車発電の凋落を補うことはできなかった。

1920年頃まで特に西ユトランドに多くつくられた風車発電は電力供給網とモーターの普及で姿を消した。第1次大戦中約250台の風車発電がつくられた。ホイリンとフレデリックスサンという大きな町でも風車発電で電力が供給された。古いオランダ型風車で粉をひくのと共に発電用として用いられた風車も多かった。

空気力学的風車翼の出現

第2次大戦の終わり頃まで羽根板風車は最も普及した型であったが、空気力学(流体力学)的風車自体は1920年代にすでにデンマークで出現していた。1920年代は空気力学分野の研究が進んだ。技術者のエリック・ファルク、ヨセフ・ヤンセン、ポール・ヴィニンなどが飛行機のプロペラと同じような形状の風車の翼の研究に従事した。誘導発電機を備えた風車発電がNESA電力会社へ少しだけだが交流電力を供給した。「アグリコ風車(農業風車)」と呼ばれた風車は外国でテストされ大変評判が良かった。だが国内ではいささか厳しかった。国の風車委員会はかくの如く結論した。「プロペラ風車は耐久性において不安がある。長期間の運転経験に基づく実用性が確認されていない」。その風車は4年間テストされた。

海軍造船所では別の人物が風車を研究していた。その名をH.C.ヴォートと言い、当時の空気力学の常識とはいささか異なった見解を持っていた。帆船の帆に関する多くの知見と鳥の羽に関する研究に基づいて、彼は翼の上面、あるいは帆の裏面にたいする空気の吸引力こそが最も肝心なものだと言うことに気づいた。ヴォートは正しかった。だが現実のものとして彼の理論が実証されたわけではなかった。帆布で覆われた翼が入念につくられた。数日後最終的なテストの準備をしていたら強い嵐が発生し、ヴォートの風車はバラバラに吹き飛んでしまったというわけである。

第二次大戦中の燃料事情の悪化により、多くのディーゼル機関駆動の小型直流発電所が再び風車発電に転換された。最も普及したタイプは「リュッケゴール(幸福農園)風車」とF.L.スミスの空気力学式の風車であった。当時の風車は直流発電機につながれ1950年代までは誘導発電機による交流発電の広範な実験経験はなかった。

夢がかなって

J.ユールは1904年アスコーホイスコーレで地域電気技師講座を卒業して以来風車に再び取り組む夢を抱き続けていた。60才を越えたとき夢を実現すべく彼は再び風車発電に取り組んだ。彼はSEAS社でそのチャンスを得たのである。

ボーク島はドイツによる占領時F.L.スミス風車を購入し直流発電で配電されていたが戦後SEAS社が配電を引き継いだ。風車もSEAS社に引き継がれ、そこでユールが最初の風車の実験を始めた。風車には特別製の翼がつけられ、誘導発電機が装着された。さらに2年後、交流発電タイプの「西エスボー風車」がつくられた。

1949年アメリカ・レークサクセスにおける電力会社の国際会議において将来的な燃料の欠乏が予測されることが明らかになった。とくに西ヨーロッパでは近い将来に深刻な事態にいたるであろうと。この結論を出した背景はヨーロッパの共同研究機関であるOEECのワーキンググループの存在があった。デンマークの参加はとりわけ求められていた。当然ながらデンマーク政府機関はこの国際的共同研究機関の要請に従うためデンマーク電力協会へデンマークを代表する委員を出すよう求めていた。1950年にデンマーク電力協会は風車発電が電力生産に果たせる役割について研究する委員会を設けた。SEAS社の社長のブールと技術者のユール双方とも委員であった。委員会は「ゲッサー風車」を5年後に建設することを明らかにした。建設資金はマーシャル・プランによるローンでまかなわれた。ユール率いるSEAS社がこのプロジェクトの実行と実証のリーダーであった。ユールがプロジェクト・リーダーと指名されたとき彼は「西エスボー風車」ですでに十分な期間の研究を行っていた。「ゲッサー風車」建設が認可された時、彼にとって来るべき仕事への準備は万端であった。エネルギー源としての風車研究として明確な目標を持った「ゲッサー風車」に対する仕事により彼は世界的な風車発電技術者としての定評を確立した。そしてさらに世界的に新しい風車発電を研究しようということになれば言うことがなかったのであるが・・・・。

油まみれのゲッサー風車

1957年、当時の運輸大臣カイ・リンナーによって、ゲッサー風車はオープンされた。オープニングにおいて、電力協会・会長のロバート・ヘンリクセンもあいさつした。彼のあいさつの最後に、原子力の平和利用への転換が触れられた。つまり、原子力はその急速な発展により、地位を築きつつあるので、風車から撤退することを検討する時期ではないかと。このような挨拶にもかかわらず、ゲッサー風車は運転を始めた。まもなくその風車は、"油まみれ風車"との異名を得てしまった。風車軸と発電機を結ぶ、チェーン・ドライブの増速装置は、油で潤滑されていた。ということで、風車の周辺が油だらけで汚れていたのだった。

1962年、風車委員会は風車は安くなった石油や石炭に競合できない、と結論づけた。ユールは委員会の最終報告書には賛同することはできなかった。ゲッサー風車は数年後に運転停止になった。だが1977年、デンマーク通産省は、特にアメリカ・エネルギー省の要請があったことなどあって、風車の研究を再開した。ゲッサー風車は2年間だけ発電を再開させられたが、今日では風は口笛を吹きながら風車を通り抜けている(=停止している)。

風車のパイオニア達の歴史を振り返ってみると、数多くの研究が行われたが、1970年代末までは、風車翼を通りぬける気流についての深い研究が、あまりなされなかったことに気づく。

羽根板式風車は、多翼式風車やオランダ型風車より、効率がよいとされていた。近代的プロペラ風車は、その羽根板式風車より2倍も効率がよい。

裏庭の風車

1976年5月25日の地方紙、ハーニング民報は"ハーニング電力、風力を供給"という見出で、地域の電力会社がこれから取り組まねばならない、全く新しい問題を報じている。それは、ボーとクリスチャン・リセアー夫妻が、彼らの裏庭の風車を、配電網と接続することの認可を求めたということであった。

地方紙の中ほどに出たこの記事は、予想を超えて話題になった。許可が2ヶ月後に出たとき、その風車のことはデンマーク中のほとんどの新聞が取り上げた。リセアー夫妻は、国中に風車が立ち並ぶ夢に胸をふくらませた。クリスチャン・リセアーは1940年代に、大工と家具職人として技を修得した人物である。

その頃、この国の風車づくりは未だ発展途上期であった。風車はたえず手がかかったので裏庭に風車を設置せざるをえなかった。そこは彼は70年代の初め、趣味で水車づくりに興じていた所であった。裏庭には小川が流れていて、そこに彼は水車をつくり発電機を回して、庭の照明をしたのであった。次の段階として彼は1972年に風車をつくり、直流発電とお湯を沸かすのに成功した。これに飽きたらず彼はさらに進んでいった。ヴォートとユールの研究成果が裏庭に新しい風車発電を実現させたのであった。すなわち翼の失速制御と誘導発電機の組み合わせである。風車翼からの外力が加わることにより誘導モーターが発電機として動作する。そして配電網に接続可能というメリットがある。風車翼の回転速度は配電網の周波数によって一定に抑えられる。発電すれば電力計は逆回転を始める。

実をいうと彼は1975年に許可なしに配電網に接続したことがあった。今では最新のエレクトロニクスで制御されるのだが、家の外でクリスチャン・リセアーが風車が回っているのを確かめながら、方や奥さんのボーが地下室の電力計が勢い良く逆回転したのを確認したというわけであった。全て順調にいったようであったが、リセアーは気になって近隣をまわって何か問題が生じなかったか尋ねて回ったものであった。電気器具の障害や送電上の問題が生じなかったのは明らかであった。それにもかかわらず心配だったのでリセアーは裏庭の発電を中止した。

リセアーはハーニング電力の主任技術者S・ルントに風車発電運転の許可を申請した。ルントはこのときにリセアーが言ったことを良く覚えている。ルントは尋ねたものであった。「誘導モーターを回転速度よりもっと速く回転させれば発電機になるというのは本当ですか」と。ルントは今までそんなことはどこからも教わったことがなかったのである。即座にリセアーは「できますとも!私は実際にやったのだから!」と告白した次第であった。
電力会社は彼に許可申請書の提出を求めた。認可には全般的な安全協定が必要であった。問題はただ一つ,そのような前例は皆無であったことであった。個人が公共の配電網に送電するなどと言うことは誰も考えもしなかったからであった。リセアーは数々の電力側の会議に呼ばれた。電力会社としてこれ以上ないというところまで数々の新たな技術的要求が出された。最終的な許可は電力会社の政治的な意向が強く出たものとなった。

電力会社は系統連携風車発電に関する規制に目を向けはじめ研究をはじめた。とはいえその問題はそう差し迫ったものでもなかった。確か当時、系統連携風車発電をもっていたのは二つのホイスコーレのみで、量産された風車発電は存在していなかった。

風車発電の系統連携への規制

リセアーが風車づくりを続けるにあたって、彼の個人用風車発電の系統連携に強いこだわりをもった。彼は量産の雛形としてまず2台の風車をつくった。その一台を建てたのがジャーナリストで風車発電の論客であったトニー・モラーであった。リセアーの記憶では彼の風車はARKES社の配電網に接続されていた。個人用風車オーナーと電力会社との決定的な対立点は売電価格であった。リセアーは彼の個人用風車に特別なメーターをつけていなかった。ということは風車から配電網に電気が流れるときはメーターは逆回転するわけである。つまり売電価格と買電価格は等しくなる。トニー・モラーの風車はもっと大きかったのでARKE社はデンマーク電力協会の承認で売電価格(風車オーナー側から見て)を安くした。それは燃料費として買電価格(風車オーナー側から見て)の5%であった。よそでは売電価格(風車オーナー側から見て)はゼロであった。初期の新聞報道では風車発電の供給は信頼性がないからということであった。

70年代の終わりには系統連携風車発電がどんどん増えたので、そのための規制と法制化が必要になってきた。

100の風車を花咲かせよう

このちょっと毛沢東語録風なスローガンで1978年、西ユトランド、ツヴィンド・ホイスコーレはウルフボルグに大きな風車をたてた。ツヴィンド・ホイスコーレは、この風車を新たなる進歩であると位置づけた。(ナチスからの)占領時代以来、民衆を生産点から隔離した中央集権体制から決別するであろう。それは電力についても同様で、原発はその極致である。リセアー風車とほぼ同じ時期につくられたツヴィンド風車は分権的自給的社会の出発点としてあった。

ツヴィンドの人は言う「先生と生徒が共になって世界一の風車をつくった。それは自然循環エネルギーの開発と奴隷制度、専制主義そして原発に反対する人間的な社会の創造のためである」。風車は1978年世界最大の風車として完成した。現在ではもっと大きな風車が存在するが、今のところツヴィンド風車はデンマークのどの風車より多くの発電量を誇っている。

風車の研究がリソー研究所で

反原発市民組織のOOAや、オルタナティヴ・エネルギー普及市民組織のOVEや、NOAHは、マスコミを利用し政治家に働きかける上で、大きな役割を担い理解者となった。急進左派を含め、左翼政党は国会で与党を占めて、デンマークの風車の普及に貢献した。とりわけ、今まで原発の研究をしていた国立リソー研究所が、風車の研究を始めることになったのである。リソーで認可された風車は、30%の補助金が得られる、という決議が国会で通過した。リソーの風車部門の目的は、黎明期のデンマーク風車発電産業への良き助産婦役となることであった。

国はいくつかのエネルギー関連政策を立法するのに加え、新しくエネルギー省をつくり、産業の育成を助成するという政策をとった。とりわけ、国は電力会社管轄の風車研究に重点をおいた。-その発端は既に1977年、ニベの2台の大風車プロジェクトで始まっていた。ニベのプロジェクトはいわば風車の成人式であった。風車がデンマークの電力供給を担うものとして脚光を浴びたのである。そのための技術的、環境的な条件が検討分析されることになったのであった。資金はエネルギー省と電力会社から調達された。650kw風車が2台で、おのおのが年間平均150万kw発電し、約400世帯の電気をまかなうことが出来た。80年代になると国が援助した風車プロジェクトはめずらしくなくなった。

ラ・クールが1891年にかつて国家援助を受けて以来

1)アグリコ風車の実証試験

2)ヴォーツの風車研究

3)ゲッサー風車

などに国は援助している。

その後、より大型風車に対して、例えばティエルボー風車(1989)、ヴィンドビイ沖合風車などへの援助として引き続がれる。この国の100年間にわたる電力供給の歴史をふりかえると、特に重要な風車に対する援助は、概して経済性と切り離されて行われているといえるだろう。

草の根レベルでの風車づくり

リセアそれからの年月は、大いなる理想主義と、数々の困難を乗り越えた時代として位置づけられるであろう。理想主義は生産者にも、風車を買う側にも存在した。技術的拙劣さはいたるとことに存在し、ユトランド人のたくましさと意志力なしには、風車発電という新しいデンマークの産業を興すことは、とうていおぼつかなかったのであろう。風車を買う側の人たちの多くは、もう一つの社会を求めている人たちであった。理想主義的で、多少の技術的難点にも寛大な、こうした人たちは皆、リセアー風車や他の風車の改良にとって良い土壌となった。

多くの風車は自然の脅威にさらされて壊れていった。こうした問題で多くの生産者が倒産した。それにもめげず、多くの生産者が立ち上がった。1978年、風車とそのオーナーの利益を守るため、デンマーク風車発電オーナー協会が設立された。協会は国と電力会社に対して、風車オーナーの目的達成のためにたたかった。リセアー風車は1980年までに約80台つくられた。のちにウインド・マチック社が風車の生産を始める。外国と比較すれば、デンマークは風車発電技術の点では大きく進んでいたといえる。デンマークにおけるリセアー風車の占有率は、1979年度で75%、80年度で10%、82年度ではわずかに1%であった。

1980年までに、多くの工房で風車に関する技術的実践がおこなわれた。1979年に、1ダースもの風車づくりの会社ができた。リセアーとユールの誘導発電機と失速制御方式は業界で広く支持され、リソーの補助金を得ることが出来た。片や、多くの小さな工房で増速歯車の配置選択、旋回装置、運転、ブレーキシステムなどに関する無数の実験がなされた。

OVEが呼びかけた、いわゆる"ウィンドミル・チャンス"に多くの小さな熱狂的な風車開発業者が応じ、情報と経験を交流した。ヴェスタス、ノルドタンク、ボーナスという3大風車メーカーはこの頃現れた。

手作りから産業へ

小規模な手作り工房が無数にあり、それがデンマーク風車発電産業の展開のベースとなった。手作り工房は小規模生産に向いているが、工業生産には適さない。それらの多くはもともとかんがい設備や貯水タンク、鉄工設備などの農業関係の機械業者であった。ヴェスタスは70年代の終わりに、ハーボルクの鍛冶屋カール・エリック・ヨアンセンと組んで、風車の開発に取り組んだ。彼は同時に、リセアー風車の開発にも力を貸している。彼はとりわけ新型の旋回装置の開発に貢献した。かくてヴェスタスは風車開発に成功する。

ノルドタンク社もボーナス社も、先輩達から引き継いだものは何もなかった。ノルドタンク社はタンク車の売れ行きが思わしくなかったのが風車を始めた契機であった。2度にわたる共同研究の結果、ノルドタンク社はタンク製造に関するノウハウが、亜鉛引き鋼板製のスティール・タワーとして生かせることに気づいた。

ボーナス社はかつて"ダンレーン"と称し、灌漑設備業者であった。その息子は、他の風車工房から集めた、いろいろな優れた部分を取り入れて風車をつくった。

デンマーク風車発電産業はかくの如くして成り立った。つまり、個人ないしは小さな工房が開発し、工房は使用者と密接につながり、各自は激しい競争をしながら、共通の利益のために"ウィンドミル・チャンス"と、リソー研究所を通してネットワークをつくった。初めの技術は比較的単純だったが、少しずつ進歩した。風車は次第に大型化したので、それに見合う翼の製造が求められた。

リソー研究所の支持、国の援助、オルタナティヴ・エネルギー運動の大きなかかわりは、風車産業育成の良い培養器となった。国内市場への風車供給はうまくいった。1982年から83年にかけて、エネルギー・コストの下落によって、風車販売は一時的に停滞が生じた。その代わりに、風車を輸出するノウハウを蓄積できたことは、生産者にとって幸運なことであった。特に、多くの風車がカルフォルニアに輸出された。輸出は1986年に落ち込み、再び国内市場へむかった。

異なる戦略と指向性

電力会社やデンマーク工科大学においても風車発電の研究が進められていたが、根本的なところで一般の風車発電産業とは異なる戦略、考え方を持っていた。彼らはニベの風車発電プロジェクトに初期の段階から関わっていたが、高度な理論を活用し計算を駆使して進めようというものであった。電力会社の風車プロジェクトにおける風車建設は常に、より大型で、より高効率で、より稼働の高い風車をつくる技術をめざしているように思える。

デンマーク電力協会からの開発援助を得たプロジェクトの一つがヴィンドビィ海上風車である。ヴィンドビィ・プロジェクトは彼ら2者の考えの者達が共同して進めたよい例である。プロジェクトの主体はエルクラフト電力会社であったが、建設したのはボーナス社で場所はローランドのヴィンドビィの沖合であった。

時あたかもラ・クールが最初の風車発電に成功してから100年目の1991年にしてエルクラフト電力会社の配電管理センターが電力量として計算に入れることのできる風車発電が始まったわけであった。

だが系統連携風車は配電網に与える負担が大きいであろう。風が吹けばそれなりの発電量を期待できるにせよ、何せ風の変動による負荷の突然の変動に備えなければならないので、配電の見通しの困難性が増すだろうというわけである。風車発電が多くなれば電力会社が通常の発電所を減らせるであろう、という可能性は考えられなかった。電力消費の多いときに風が吹かないときもある。これは系統連携風車発電にとって一つの難点ではあった。

にもかかわらず、国のエネルギー政策の目標の一つに、個人所有の風車発電の普及にはとりわけ、安い系統への接続コストと十分な売電価格でなければならない、と謳っている。電力会社はそこを突いてきた。政治家達も電力会社が配電網の増強を強いられるということは、とどのつまり一般の電気消費者にツケが廻ることであると考えた。これは電力会社側のきわめて一方的な言い分だが、"個人所有風車発電により一般電気消費者が経済的損失を被るであろう"、とデンマーク電力協会会長のヤコブ・L・ハンセンは断言する。(デンマーク電力協会1992年総会挨拶より)

電力会社としては他の分散型電力源,例えばバイオガス発電、産業用あるいは分散型のコジェネレーションなどが同じような要求を始めることを恐れていたからである。とりわけ分散型のコジェネレーションが急激に普及しつつあるが、そういうわけで電力会社と結局は一般消費者にとって高くつくであろうと言うわけである。

電気税の還元

風車発電は大型化と技術の改良により80年代にはデンマークのエネルギー市場で競争力を持つに至った。1991年のキロワット時あたりのコストは1980年代のわずか1/3でしかない。デンマーク風車発電製造組合によれば1991年の最新型の風車発電は石炭火力のそれと同じである。1991年からのエネルギー省の風車発電研究によるとまた別の結論が得られる。研究はもっとも普及した150kwタイプの風車に絞って行われた。それによると風況がもっとも良い位置の風車は石炭火力より35%も安上がりであることがわかった。

さらに風車発電は今も続いている国からの補助金を得られるという目に見える利点がある。1977年に立法化された補助金は電気税の還元と見なすことができる。立法の趣旨は化石燃料輸入の抑制にあった。1991年度のkwhあたりの還元率は23オーレ(0.23クローネ)で風車全体では1億3千万クローネであった。

地球温暖化対策としての風車発電

1985年に政府は1990年までに電力会社が10万kwの風車発電をつくることを課していた。1990年が近づくと電力会社のノルマは1993年までにさらに10万kwと追加された。1990年のエネルギー省の行動指針「エネルギー2000」によれば「2005年までに風車発電で10%のデンマークの電力がまかなわれなければならない」とある。今日実現できたのは3%である。

行動指針はいわゆるブルントラント・レポートに記されている勧告を具現化するためであった。繰り返し語られているようにブルントラント・レポートの核心は地球の温室効果である。それは予想しない気候変動をもたらし、未来の生命の存続を脅かすであろうことは多くが認めるところである。温室効果の原因は化石燃料の燃焼による炭酸ガスの発生に起因する。わがデンマークは一人当たりの炭酸ガス発生量が一番多い国に属するので、その削減への行動を始めることが大変重要なのである。さらに行動計画にはデンマークは小国にもかかわらず、世界の0.5%のエネルギーを消費していることも記されている。

私たちのやることはデンマークにきれいな空気を保つことと同じく、環境にやさしい技術をもっと外国に輸出することではないだろうか。風車発電はこの2つの要求に応えることができる。電力会社の風車は100kw以下から500kw以上まで存在するが、後者は未だ実験段階である。

これからの風車発電は

今日デンマークには個人所有、協同組合所有、電力会社所有など併せて3500台以上の系統接続の風車発電が存在する。エネルギー2000の目標を達成するためにはもっと多くの風車を建設しなければならない。

地域に建設する際には様々な障害が存在する。電力会社は既に400台の風車発電を建設し合計出力は8万kwである。近年中にこの倍つくらねばならない。電力会社にとって予定通り風車発電を建設することは容易ではなかった。とりわけ多くの地域で予定地住民の反対に遭遇したからである。実際の立地責任は環境省の風車設置委員会にあったが、電力会社のための新しい10万kw分の用地確保は困難であった。

一つの解決策は海上に建設することであった。しかし風が良く吹くという点ではベストだが、片や建設コストや日々の保守管理費が上がるという問題があった。環境的にも海上風車は陸上より問題があった。航路、海流、鳥、魚類、通信回線等々である。海上風車は利害の錯綜する政治ゲームのただ中に置かれた。

このように風車発電を与えられた条件で設置し、電力を供給できるためには技術的、経済的双方の問題がある風車発電メーカーは多くの風車を売りたがり、より良い輸出のための良い国内市場を望む。80年代、政治家達は概して風車発電に好意的であった。実にこの10年間で翼、旋回装置、増速歯車、発電機などについての数多くの改良がなされた。だがこれは将来、従来の発電技術とそのうちに充分競合できるようになるまで改良が進むであろうと言うことではない。だが発電所に対する環境への要求は大きさを増していくので、風車発電の技術的競合力は強くなるであろう。

順風も逆風もあった風車発電

世界地図で見るとデンマークは良く風が吹き、風車発電に適した位置にある。"切り株風車"が1400年代に伝来して以来、私たちは風車を利用してきた。風車の技術は南方、とりわけオランダから伝わった。ラ・クールが1800年代末に初めて風車発電の研究に取り組んで以来、デンマークにおける風車発展の第一歩が始まった。その第一歩の大きさの意味が次第に明らかになっている。

歴史的に振り返ればラ・クールはデンマークにおける風車発電の広範な発展と伝統の基礎をつくった。ラ・クールによって教育された技術者達は1920年代に風車発電技術の開発をめざしたが成功しなかった。彼らの時代はラ・クールが活躍した頃のように、時代が新しい技術を求めているという状況ではなかった。発電用ディーゼル機関や蒸気タービンと同時に競合しなければならなかった。

ラ・クールにより風車発電は発展したのであるが、それは彼一人の功績に帰すべきものではないことも記さねばならない。ラ・クールの活動はフォルケホイスコーレ運動の一つの拠点であるアスコー・ホイスコーレで既に行われていた民衆教育の一つとしてあった。J.ユールは伝統を引き継ぎ、新しいものを付け加えた一人であった。だが50年代の社会は電力供給サイドも消費者側も風車発電のことを忘れ去っていた。1973年のエネルギー危機と、中央集権的社会に反対し社会の小規模化を求める運動が少しずつ広がり、風車発電に新しい風を吹き込んだ。関心を抱いた人々が相集った。何年かにわたり、それぞれの発見と経験を分かち合うなかで多少の成功もあった。彼らは再び国中に風車発電を復活させようと堅く誓い合った。初め、電力会社の専門家とデンマーク工科大がそうした運動に介入し、歩みだした風車の発展が振り出しに戻ったこともあった。

80年代の発展はかなりのところ、きれいな環境を求める政治運動に助けられている。政治家たちが風車発電に好意的であるかどうかが風車発電の新たな展開を決めた。政治的な風も常に一定ではないように思える。

(完)


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