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第01回 鹿児島県鹿児島市明和団地

*調査対象地について*


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今回のレポート[1]に当たって調査対象地として選定したのは、私が生まれてから中2まで暮らしていた鹿児島市の明和団地(上のGoogleMap参照。読者の皆様はぜひこれを別ウィンドウで開いて航空写真モード、地形モード、地図モードなどを切替えつつ、また場合によっては拡大・縮小しながら読んでほしい。そうすれば私の歩いた土地の感覚が多少は実感を持って理解できるはずだ。)である。

藩政時代、および戦後すぐまでに形成された旧市街は、ほぼ甲突川[2]の流域ぞいの平地に収まっていたが、高度経済成長とともに鹿児島市の人口は拡大の一途を辿り、現在ではその大部分は戦後山を切り開いて作られたこのような団地に暮らしている。団地はその中でも2番目に古く、昭和40年代に分譲開始している。なお、この団地の正式名称は原良団地というが、元住人としては地名の明和をとった明和団地のほうが呼称としてなじんでいるのでこちらを使わせてもらう。

この団地の特徴として特筆すべきは、その平地の少なさである。普通この種の新興開発地においては、莫大な機械力を利用して山を平らに均し、広大な平地を作り出すが、それ以上に自然条件が劣悪であった。複雑に入り交じる尾根や崖は、いかにも団地的な広大な空間の創出を不可能にし、その代わり、碁盤の目状に形成された小規模な住宅街がいくつも複雑に水平にも垂直にも連結する構造が出来上がった。そのため、現在鹿児島市で相次いでいるメガストアの進出が明和団地に関しては阻止されており、どこに行くにも急な坂を上り下りしなければならないという団地内の移動性の悪さも手伝って、これ以上の発展は望めない状態である。

典型的な明和団地の一街区
典型的な明和団地の一街区

*東と西*

前述したように、この団地は極めて坂が多い。しかも多少の坂ならばそのまま均した上に強引に碁盤の目状の街を作ってしまうという、あたかもサンフランシスコの如き開発過程を経ているので、町並みはほぼどこも四角四面の千篇一律である。団地の中央部、唯一の平野にあるのは学校と団地、それに地元資本のショッピングモールという、大体の団地にある近代3点セットであり、その周辺の光景に関しても、鹿児島の他の団地とさほどの違いは見られない。

団地中央部から山麓に降りる道
団地中央部から山麓に降りる道

街が裂け目を見せるのは、幾つかある山裾への下り坂の周辺が多い。おそらく団地ができる前は人が歩いて登っていたであろうと推測される、最大でも2車線くらいしかないぐねぐね道に沿って、谷底まで家並がうねりながら続いている。そこには畑であったり墓であったりというような、上の団地には受け入れられなかったものがひっそりと存在している。

さらに、同じ団地の西側と東側でも若干の差異が見られる。桜島を望む東側は市の中心部に面しており、また下界と連絡するもっとも重要な道路もそこから降りていることから、学校やショッピングモールなどの他に高級住宅地、金融機関などが集中している場所である。

明和団地東側
明和団地東側

ところが西側はといえば、隣りの武岡団地、さらに伊集院や川内といった北方の町々に通じているバイパス付近を除くと、基本的に崖や山で区切られた土地である。桜島に向かって開けた東側に較べると、眺望も悪いし(あくまで相対的にだが)水はけが悪く小汚い感じがする。ブロック塀に生えるコケも、東側より西側の方が成長が良いようだ。また、写真のように分譲開始時に建てられた一律規格のプレハブ住宅がまだ多数残っており、土地の利用法も、たとえば塀を全て取っ払って大量の草木を植えたり、コンクリートの崖下を開墾して畑にしたりと多様である。

明和団地西側
明和団地西側

総じて言えば、西側は東側に較べてより自然に近い状態にあるだろう。キイチゴ採りに夢中になっていた子供の頃の記憶を引っ張り出してみても、カジイチゴやコケモモといった食べられる木の実があったのは、すぐそこまで野生が押し寄せていた東側の崖や薮の中であった。

しかし、そこに習俗的な記憶があるかと言われれば、私は首をかしげざるを得ない。団地の西部は、明和団地と武岡団地という2度にわたる開発によって、かつての記憶はほぼ根こそぎにされている。ここには、その後住みついた住人の記憶しかない。むしろ、東側の方が旧市街に近いことから、その点では勝っているのではないか。

市内で2番目に古い団地ということで、明和団地の高齢化はかなり進行している。今回帰ってみて、ショッピングモールの一店舗がデイケアサービスに模様替えしているのを発見してちょっとびっくりしたが、道を歩く人影も老人が非常に多く見られた。団地第一世代たる彼らは、この新開地に歴史の層を積み上げることに成功したのだろうか。それとも、あくまでこの団地は「ベッドタウン」であって、何処かの病院や老人ホームへとまたディアスポラを続けていくのだろうか。

*記号*

典型的な明和団地の一街区
山形屋ショッピングプラザ

この団地においては、高度資本主義的記号消費は極めて貧弱なものである。それには、まずメガストアが進出する場所がないという地理的要因と、団地自体が高齢化によってゆっくりと衰退しつつあるという歴史的要因の二つが作用しているだろう。これより古い紫原団地に関しては、平地面積が多いことに加え大きな道路が二つ交差する交通の要衝であるため、近年でも大規模な生協の店舗や高級パン店、コーヒー専門店が相次いでオープンするなど多種多様な商業活動が展開されているが、明和団地については、コンビニはファミリーマートが一軒あるだけで、大きな商業施設の展開があったのは、私が小学校低学年の時に地元の小売り大手山形屋が「山形屋ショッピングプラザ」(上図)を小学校のとなりにオープンさせたのが最後である。現在鹿児島市に荒れ狂う県外資本の進出ラッシュも、この団地については無縁である。

山形屋ショッピングプラザ店内
山形屋ショッピングプラザ店内

店舗の内部にしても、徹頭徹尾生活に徹している。そもそもこのモール自体が元々あった地元の市場を内部に抱え込む形で作られたことからして、方向性はそちらを向いていたのだということが見て取れる。他の店舗も、ほとんどが鹿児島資本である。2階には温泉もあるが、鹿児島にも幾つかあるレジャー要素の強いメガ温泉とは違い、あくまで実用第一を旨としており、展望風呂も休憩施設もない。

*「原」明和、あるいは原良へ*

明和団地と武岡団地の境、最高度地点の貯水タンクを目指して二丁目の坂を登る。市営バスの発着場を過ぎ、タンクの根元で左に曲がると、この団地の本名の元となった原良町に下りる道がある。この道は明らかに団地以前からあったものだ。すぐ近くの水上(みっかん)坂は藩主が参勤交代のために通った街道であったことを考えると、その枝道の一つだったのかもしれない。かつては木が鬱蒼と茂り、狭い道は対向車が行き交うことすら困難であったが、数次にわたる拡張工事によって今や2車線の道路が走っている。しかし、山肌に沿ってぐねぐね回りながら進むきついカーブの道は、その由来をまだ示しているかのようだ。

馬を飼っていた家
馬を飼っていた家

道を降りはじめてすぐ右手に、私が小学生の頃まで馬を飼っていた家がある。多い時には数頭の馬がいて、写真の軽自動車の左側に厩が建っていた。無論そのころから前の道路は自動車の天下であり、周りで馬を乗り回せる場所などろくになかったはずだ。公道で馬を散歩させているところも見たことがなかったし、一体どのようにして、何のために飼っていたのだろう。

さらに下ると、原良町の全景が見えてくる。山裾までぎっしり押し寄せた家並はいびつで、道は自然のままに歪んでいる。今原良団地となっているところは、昔は原良町の裏山であったはずだ。ところが、今ではすっかり勢力逆転。団地の方は日の当たる山の上でのうのうとしているのに、元からあった街は湿気た谷底に沈んでいる。人口の高齢化率も、団地の比ではないはずだ。

原良町(正面奥は桜島)
原良町(正面奥は桜島)

しかし、それだけに団地開発以前の、もしかすると江戸時代の記憶さえ残した多様な光景が豊富に埋まっている場所でもある。たとえば鹿児島の伝統的な石組みで作られた塀がブロック塀の下に隠れていたり、古い田舎の雑貨屋がまだ残っていたり、いつもお経が流れている変な温泉があったり、1994年8月6日の大洪水(通称8.6水害)の犠牲者を供養する私設の供養塔を作っている家があったりと、規格化された団地の景色に慣れた目には異物ともとれるようなものがしばしば見られる。

雑貨屋(手前)と温泉(奥)
雑貨屋(手前)と温泉(奥)
ブロック塀の下の伝統的石組み
8.6水害の犠牲者を悼む詩
原良町より山の上の団地を望む

ところが、街が山裾を抜け広い土地に出ると、辺りの光景は一変する。山麓を走る道路を境に、数年前に大規模な再開発が行われたのだ。結果、道路一本はさんで片方は車一台やっとすれ違えるくらいの細いぐねぐね道と木造家屋、もう一方は舗装されたばかりの2車線道路にカラフルな新築住宅が小奇麗に立ち並ぶという、非常に対照的な光景が現出した。

ツタヤ
漬物の里

ここでは記号消費が急速に浸透しつつある。ここからさらに東側の甲突川沿いにはヤマダ電機の巨大な店舗がオープンしているし、それ以外にも郊外型大チェーンの飲食店やスーパーマーケットは多数存在している。とくに私が驚かされたのは、それらの店が軒を列ねる通りにあるツタヤの駐車場であった。母方の実家がすぐ近くであったため、このツタヤは出来た時から良く利用していたが、その頃はちょうど写真奥の駐車場と手前に走る道のあいだに小さな木立があった。それは、小さいが緑の濃い木立で、まるで「鎮守の森」と言いたくなるような風格を備えていた。じっさい、その中には「水神」と書いた小さな石碑が祀られており、それはずっと前からその地にあったような、強い呪術性と聖性を感じさせる場所であった。

このアジールには全国チェーンのツタヤといえどもなかなか手出しを出来なかったのか、あるいは単に土地所有者との権利関係のこじれかは分からないが、森はずっと駐車場と道路の間に居座りつづけていた。ところが、今回行ってみると、木々は見事に消えうせ、道路から建物まで全てツタヤの駐車場と化していた。そして、二つの石碑だけが白っちゃけた駐車場の中に居心地悪そうに祀られていたのだ。森が消えた跡地には、「漬物の里」なる商業施設がオープンしていた。私が行った時はたまたま休みだったため、どのような趣旨の施設かは詳しく分からなかったが、建物正面に貼り付けられた絵が全てを語っていた。昭和20〜30年代とおぼしき時代背景に、ノスタルジックな西日が画面全体をオレンジ色に染め上げ、漬物の壺が置かれた店内にはおばあさんと子供が二人。言ってしまえば、いわゆる「三丁目の夕日」系の絵である。現実の習俗の痕跡(祠)を潰した後に出来上がったものが、こんな気色悪いガラクタだとは[3]。ここが原良町の東の果てである。ビルの向こうには中央駅の大観覧車も見える。汗が急に吹き出してきた。

ツタヤ
現在の石碑

[1]この文章は2008年度東京大学教養学部後期課程相関社会科学分科科目「社会意識論1」(内田隆三教授担当)の期末レポートとして、2008年夏に書かれたものである。

[2]鹿児島市内を東西に流れる最大河川。1994年には長雨の影響で氾濫し、市内全域が浸水する被害をもたらした。

[3]ベンヤミアンの内田先生に言わせると、この種の事物は消えてしまった何物かを空虚に指示するアレゴリーに他ならない。以下に、有明海の干拓、とくにムツゴロウ裁判で有名な諌早湾についての内田論文を引用する。

JRの佐賀駅から、県庁などの公共機関の並ぶ城跡のほうへ向かってメイン・ロードが一本真っ直ぐに伸びている。その通りに現れた都市景観や人びとの格好には、のんびりとした周辺の風景とは明らかにトポスの異なる「消費社会」の光景が映し出されている。

<中略>

実際に歩いてみると、この土地らしい風物が一つあることに気づくだろう。メイン・ロードには一種のシンボルマークがいくつも埋め込まれているからである。マンホールの蓋に刻まれたエンブレムや、広々とした遊歩道の敷石にはムツゴロウの絵が装飾用にあしらわれている。ムツゴロウが街のシンボルとしてデザイン化され、あるいはカラー写真に映されて、街路のあちこちに跳ねているのである。

<中略>

泥臭い干潟の海の習俗を象徴するはずのムツゴロウが、佐賀のファッショナブルな街路の中に消費社会の光景の寓話的な断片として生きている。それはいかにも逆説的な話だが、この逆説はムツゴロウの<死>を——ムツゴロウのもはやその生へ回帰することのない記号への<変身>——を引き換えにしているのである。小綺麗なメイン・ロードの光景はこの地で知らないあいだに消費社会の論理にもとづく「記号の干拓」が行われたことを標識している。

(内田隆三著『国土論』第四部「廃虚」第1章「海の死と記号の国土」p.435-436、筑摩書房、2002)

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