第02回 鹿児島県鹿児島郡十島村平島
1日目 「辺境」最深部への退却(2009/11/07)
いま、トカラの平島にいる。窓の外はすっかり暗くなったが、さっきまでは笹藪越しに東シナ海が見えていた。かすかに潮騒がきこえる。
学期半ばでこんなところに来ているなんて、いったいおまえは何を考えているのだと言われても仕方ないかもしれない。鹿児島港を出港するときの気分は、すべてを捨てて辺境最深部に向かうどころか、東京から伸びるゴムひもに背中を引っ張られつつのきわめて中途半端な気分だった。
甲板に出て、ゴムひもの一本にメールを送る。そして電源を落とす。これから行くトカラ列島は、携帯がドコモ以外通じない。したがって、au端末である我がW44Sは、これから一週間弱、石ころ以下の存在に成り下がる。
携帯の電源を落とした瞬間、湧いてきたのは解放感ではなく不安感だった。いつも電波の鎖に縛られて、それを桎梏と感じていたが、どうももっと深い意識レベルでこの装置は自分というものに深く入り込んでいたらしい。
出航してしばらく、船は錦江湾を走る。感度をISO1200まで上げたデジタルカメラを持って、デッキをかけずり回る。シャッタースピードは二分の一から六分の一。カメラをどこかに押さえつけていなければ確実にぶれる。何枚か、カメラを船の外に突き出して撮る。月光に照らされる白波がぶれて、白く糸のようになる。きれいな写真が撮れた。しかし、高所恐怖症気味の人間にとって、この方法は大変にびびる。
そういえば、東京から鹿児島までは飛行機を使ったのだが、JALの最終便で羽田を離陸し、東京湾上を大きく右旋回して高度を上げていくときのことだ。ほとんど満月にちかい月が北東の空高くに輝いて、それに照らされた東京湾と関東平野がギラギラと光っていた。真っ暗な海、真っ黒な空、真っ黒な大地、しかしそれらを煌々と照らす光が、天空の一角から降り注いでいる。「寂光」とは、こういうことをいうのではないだろうか。
口之島の直前で目が覚めた。外はまだ真っ暗だ。何とかもう一度寝ようと努力しているうちに口之島に着いた。写真を撮ろうと思ったが、元気が出ない。日が昇りかけているらしく、窓の外が青くなっていた。
中之島から尚さんと荒川さんが乗船。これまで四日ほどいたらしい。見送りの人がいた。
デッキで尚さんがベンチに座っていた女の人に話しかける。雰囲気や持ち物がかなりあか抜けていたが、聞いてみたら中之島の学校の先生らしい。これから名瀬経由で鹿児島に向かうとか。舷側からは中之島と諏訪之瀬島が見える。諏訪瀬の御岳は噴火したらしく、煙を上げている。先生の話では、諏訪之瀬島の灰は中之島まで飛ぶという。そういえば鹿児島でも最近桜島がぼかすか噴火しているらしく、そこらじゅうに灰の名残があった。諏訪瀬の御岳と桜島は連動しているという。
一時間ほどで平島についた。遠くで見たら平らに見えるからということで平島という名が付いたそうだが、近くで見たら全然平らじゃない。そこに琉球寒山竹という筆くらいの太さの竹が一面生えている。あまり大きな木はない。(あとで聞いたら塩の影響じゃないかということだ)南の島というより、霧島に来たみたいだ。
たいら荘の用沢さんが車を転がしてくる。そのまま尚さんの運転で部落へ上る。ヘアピンカーブを何度も折り返す。舗装はすべてコンクリート。砂に海砂をつかったところと、屋久島から川砂を運んできたところで、路面の状態が全然違う。前者はぼこぼこに亀裂が走っている。
民宿たいら荘につき、荷物を下ろす。釣り客中心の船宿らしく、廊下には魚拓多数。どれも非常識にでかい。自分の身長よりでかいやつ、小錦くらいの重さがあるやつなどなど。だんだん魚というもののスケール感が狂ってくる。
そういえば鹿児島の山形屋デパートではちょうど北海道展をやっていたが、そこで並んでいたタコの足も非常識なでかさだった。一本の太さが人間のふくらはぎほどあるところに、500円硬貨ほどの吸盤がぞろぞろ並んでいる。それが10本くらいまとめて氷漬けにされているところなど、もはやタコの足というより「触手」である。士郎正宗とかラヴクラフトを思い起こさせる。欧米人がタコを嫌う理由が少しわかった。
尚さんに案内してもらい、部落を一周する。小中学校の体育館をのぞいてみたら、ちょうど学習発表会が終わったばかりらしく、展示が少し残っていた。内容は牛の生態観察(平島は畜産をやっている)、日食時の生き物の生態観察などなど。一番おもしろかったのは、中学生の職業体験学習のレポート。アポの取り方から全部やるのは自分の時と同じだが、なにせ人口100人に満たない島。そんな他人行儀の「ビジネスマナー」がどこまで通じたか。電話口の現場を想像するとおかしかった。それと、コミュニティセンターの玄関脇に、箒と一緒に日章旗が雑然と立てかけられていたのには驚いた。さすが日琉境界の島。日本国家の権威も、ここまで来れば形無しである。
ほかに「マルセル・モースの竹藪」、「マン&フルトヴェングラーの家」、「カミヤマ」「ネズミの死体が浮いていた水道タンク」など、年季の入った稲垣尚友ファンにはおなじみの「史跡」をまわる。
宿に戻って、こんどは島の反対側のヒガシに行く。現在風よけのための予備の港が吉留建設(トカラ最大の建設会社。最近買収されたらしい。)により建造中である。でかい鉄の浮き艀にクレーンが据え付けられて、クレーンの先には金属の巨大なくさびのようなものがついている。要は解体に使うディーゼルハンマーと同じで、大質量弾頭の破壊力で珊瑚礁を粉砕し、1000トン級の大型船が通れる水深を確保するわけだ。ダイナマイトでも仕掛けて一気にすませばいいのにと思うが、このあたま悪そうな工法は、しかしながら見ていてきわめておもしろい。弾頭が落ちる瞬間、「どーん」と腹に響く音が響く場合と、水しぶきだけ盛大に立つ場合と二つあるようだ。ヒットと空振りの違いかもしれない。
海岸は砂浜の部分もあるが、大半は漬け物石くらいの大きさの砕けた珊瑚がごろごろしている。それに混じってハングルやベトナム語のペットボトルや、まだ中身のある椰子の実も落ちている。椰子と珊瑚、それに白地に紫の斑点のある貝(名前は忘れたが、宮崎らへんではすごくレアな貝らしく、知り合いが探していた。)などを拾って戻る。フィルムとデジタルのカメラ二台、それにICレコーダに加えて、こういうがらくたを担いで帰るのはものすごく大変だった。
戻って、尚さんに借りたサイードの自叙伝を読む。「エドワード」という西洋的な名前と「サイード」というアラブ風の姓からなる自身の名前にずっとコンプレックスを感じていたとか。サイード先生、ほかにアドルノ論などもやっているらしい。EXILEつながり[1]だ。近いうちに読んでみたい。
コミセン[2]の温泉が開いてる日だったので、風呂に入りに行く。はじめは誰もいなかったが、途中で小学生と中学生の男の子が入りに来る、と思ったら、荷物だけ置いて外に行ってしまった。待たせるのも悪いので、こっちが出ることにする。入り口のところにミュールが何足も脱ぎ捨てられていた。一緒に来たらしい女の子たちはもう入ったようだ。履いているものを見る限り、消費生活のレベルは鹿児島・東京とさほど違わない。このまま渋谷に履いていってもおかしくない。
戻って、この日誌を書き始める。一日で3000字になった。これはいけない。続かない。まあ、あとはここに書いたことの差分を書けばいいのだから、多少は減るだろう。記述することももう少し減らさなければ。自分は「ユリシーズ」を書いているわけではないのだから。
島に着いてから初めての晩ご飯。隣の部屋に長逗留している釣り客の川島さん(尚さんの本のファンで、来る途中のフェリーで著者本人と偶然会ったらしい)がアラ(関東ではクエといった方が通りがいいかもしれない)を釣ってきたということで、それを使った鍋になる。それに伊勢エビの触覚や足をボンボン放り込んでさらにダシを取る。伊勢エビはほかに刺身にもなっている。おそらく、銀座で食べればお勘定にゼロが四つつくのは覚悟せねばなるまい。豪奢な光景である。
酒は焼酎というのは昔から変わっていないが、何を飲むかは時代によって異なる。50年くらい前までは各戸で島焼酎というのを自家製造していた。定期船が再開し、現金収入が多少なりとも得られるようになってからは、鹿児島の焼酎(白波)を買って飲むようになった。それがいまではパックに入った黒伊佐錦になっている。このへん、鹿児島本土の流行と呼応しているようだ。ただ、ブランドが何でも、島で飲む焼酎はとてもうまい。焼酎はやはり南国の酒だと思う。
この日寝たのは11時頃だったろうか。
2日目 稲作神話の起源(2009/11/08)
あまりちゃんと寝ないうちに朝が来る。昼頃までごろごろして、無為に時間をつぶす。部屋のTV台に本や雑誌が積んである。青年誌が多い。ヤンマガやらYJやらパチンコ攻略誌やら。普段読まないジャンルなので、結構興味深い。2時間ほどの調査の結果、集英社が一番売れているという勝手な結論に達する。理由は、自分でも知ってるマンガが一番多かったから。実際のところはどうなってるのかしらん。
それからまた集落巡り。宿の前で小中学生の女の子の集団にでくわす。その中の一人がどこかのアパレル系の紙袋(光沢のあるピンク色)を後ろ手に持っている。その姿はまるで休日の都会のティーンエイジャーだが、紙袋は何度も使われたらしく、分厚い紙には深いしわが刻まれている。都会に行ったときに買った服の袋を大事に使っているらしい。今日は日曜だが、最寄りの駅ビルまでは船で8時間以上かかる。
今度はずっと北の方にも行ってみる。汐見畑がなまったスバタケという場所(集落の前の海が一望できる)に行ってみるが、笹で覆われて海はほとんど見えない。もう、天気は天気予報で知る時代になって久しい。
道を歩いていると、ときどき細い側道がある。両側から琉球寒山竹に覆われた細道をカメラと服を守りながらぐねぐね下ると、竹林を切り開いて作られた30坪ほどの人工の池があらわれる。水イモの畑である。
島は土が粘土質であり、水がたまる。ゆえに、かつてはそれを生かした稲作が産業の中心であった。狭い島のそこかしこにつくられた猫の額のような水田は、最大14町歩にも達した。「平の銀飯」といえば、敗戦直後には近隣の島でも大変な威力を発揮したらしい。
しかしこの稲作も、南方から日本人の祖先が稲を携えて上ってきたとき以来の古式ゆかしいもの・・・というわけではなく、島で稲作が始まるのはやっと大正か昭和に入った頃からである。ろくに平地のない場所に無理矢理田んぼを作っているから、一枚一枚の面積から何から、機械化された集約農業には全く適さない。費用対効果の点からいえば、全く割に合わない生業である。だから、畜産や漁業、月給などで稼いだ金で、いまは多くの世帯が鹿児島から米を買っている。長い島の歴史からいえば、米がメインの生業であった時代はむしろ例外的な存在であったといえるだろう。
(しかし、興味深いことに用沢さんは江戸より昔から島で米をずっと作っていたという)
島の土は粘土質というのは先に書いたが、色は赤い。赤土である。道路に面した崖を見れば、崖の上に生えている琉球寒山竹の根が届く範囲だけが黒い腐葉土になっていて、それから下は全部赤い。つまり、肥えているのは表面だけで、全体的にあまり栄養のある土壌ではない。アマゾンの熱帯雨林と同じ構造だ。
戻って、晩ご飯。今日はIターン者の村主さん、隣に住んでる学校の先生が来る。途中で尚さんのファンだという小6の女の子が、「埋み火」を持ってサインしてもらいに来る。スター来島である。
今日はかなりしこたま飲む。酔ってめんどくささが十倍増になった村主さんに、なぜか気に入られる。どんなに飲んでも終電の時間を気にしなくていいのはありがたい。みなに「トカラ塾」のHPを見せる。ここのPCはコア2+ビスタのダイナブック。手元が滑って、30センチの高さからカーペットの上に落とす。
布団に入ってしばらく、寝げろの恐怖におびえる。結局、寝たのは1時近くだった。
3日目 海へ来るつもりじゃなかった(2009/11/09)
朝起きて、自分がまだ「人間の条件」を満たしていることに安堵する。でも、胃は心なしか重い。アセトアルデヒドの馬鹿どもがまだ滞留している感じがする。外は今度こそ雨が降っているようだ。今度こそ、と書いたのは、前の日やはり雨音のようなものを聞いて、あ、そと雨なんだなと思ったら、琉球寒山竹の葉擦れだったという体験があったから。ここでは、波と琉球寒山竹が音の定常項である。
朝食後、また本を読んで無為に過ごす。持ってきた英語の本が一冊あるのだが、どうしても部屋の隅の週刊誌やコミック誌の方に目は泳いでしまう。いわゆる「仕事したくない病」である。ちなみに持ってきた本の内容は、南米ペルー低地地方の原住民の神話分析を軸とした政治と暴力の研究。
傘を差して集落の方へ。尚さんが昔住んでいた家をたずねる。お爺さん一人とチワワが一匹いた。後者は、来た日に港の車の中にいた二匹の片割れだろう。まるで猫のような犬だが、一人前に吠える。
ここに来て初めて大型液晶テレビを見る。しかし映っているのはアナログ放送。地デジの導入はまだ先のようだ。光ファイバーが通っているのだし、IP再送信でも何でも早くすればいいと思うのだが。ちなみにBSデジタル放送は映るはずだが、導入している家は見た範囲では一軒もない。
家の現在の主から、今度自衛隊のレーダー基地が島にできるという話を聞く。すでに視察は入っているらしい。トカラの中で最も西よりに位置することが、対中国の情報収集活動においてこの島の戦略的価値を生んでいるようだ。おそらく全自動の無人施設だから定期的な雇用は期待できないが、発電や通信、それにヘリポートといった基礎インフラ整備には何らかのプラスがあるのではないか。
11時頃、上りの船が入った。碇を降ろし、狭い港で器用に転回して船が着く。おもりの付いた細いワイヤーが船から打ち出され、それを導索としてあとに太い綱が続く。前後に2本づつで係留されるが、それでも船はかなり揺れる。渡されたタラップから人が足早に降りてくる。前甲板のクレーンが動いて、コンテナを素早く積みおろす。島の男はほぼ全員、二日に一回はヘルメットをつけて係留および荷下ろしをしなければならない。船は島のライフラインと言っても過言ではない。だから、どんなに海が荒れていても、各島に寄港するよう全力を尽くす。
12時過ぎ頃、村主さんが来て、「いまから船で沖に行かんか?」という。海は昨日よりだいぶ荒れていて、白波が少し立っている。大丈夫かと思ったが、これを逃せばまたとないかもしれない機会だし、乗ることに決めた。
雨靴に救命胴衣で漁船に乗り込む。港を出た途端、潮流と風向きがぶつかり合ってできるすざまじい波に、船は翻弄される。足を踏ん張っているか、どこかにつかまっていないと本当に振り落とされかねない。遊園地のジェットコースターなど、これにくらべればシートベルトがあるだけまだましである。
しかし、走っているうちはいい。鰹や鰆を釣るためには船尾から長いロープを流して先に疑似餌をつけるのだが、そのとき速度はおよそ時速3〜5キロ程度に落ちる。船、揺さぶられ放題。しかも排気ガスが後ろに抜けていかないので、臭い。
朝から胃の府に感じていた不穏な気配がここにきてますますその勢力を増し、人間の条件を侵し始めた。しかし、吐けば楽になるというのは間違いだ。偽りの救いを約束し、屈辱の中で「もはや吐くものがない」というさらなる苦しみをエンドレスで味あわせる、逆賊アセト団の奸計にはまってはならない。耐えるのだ、俺。
最初、日よけの骨組みにぶら下がって、波のモーメントを腹で吸収しつつ、三半規管その他センサーが入った頭部をなるべく安定させるようにしたが、揺さぶられ続ける腹の方がだんだん妙な感じになってきた。あきらめて舵の近くに座り込み、目線はなるべく遠くを、思考はなるべく関係ないことに集中するようにする。といっても見えるのは右手の島影と、見渡す限りの波だけ。
フーリエ変換という数学上の技法がある。詳しいことはあまり知らないが、要は複雑な波形をより単純な波形の合成物へと分解するやりかたである。このやり方をとれば、最終的にはどんな波でも波の理念型としての正弦波の集合体へと解体される。iPodに使われる音声圧縮技術もこの手法があればこそ可能である。
つまり、現実の波を一つの社会事象のアナロジーとすれば、それは無数の単位行為(理念型としての正弦波)の合成体として記述可能であるということになる。また、大きなうねりの中にいくつもの波があり、またその表面には無数の波紋が走っているというように、社会現象はいくつかの階層をもって存在しており、下位の波同士がちょうど強めあう特異点に於いて、特有の強度をもった「プラトー(高原)」が成立する。
しかしここで気になるのが、どんな波でも単波長の正弦波にまで解体可能といっても、それは無限回のフーリエ変換行程を経たあとであって、現実に実現可能なのはその近似でしかないということだ。それは、いわゆるロスレスオーディオ[3]でも同じだ。なぜなら、復元すべきオリジナルが、すでに量子化された(本来のアナログ信号の無限の情報量をデジタル的に切り分けた)データでしかないからだ。
つまり、自然に存在している波を、そのままの状態でフーリエ変換によって正弦波という波の理念型へ還元することは不可能ということになる。どこかでデジタルコードに、つまり計量・変換可能なフォーマットに落とし込まなければ、理念型の抽出は不可能ということになる。
ここからシステム/環境図式における作動の閉鎖性という命題が導出されうるのだろうが、目下のところ考えたいのは、むしろ、ここでこうして思考しているコギトとしての私が、計量不能なカオスとしての環境(ぐらぐら揺れる船、不断の吐き気を訴える胃etc・・・)に全く以て埋め込まれた存在であるはずなのに、なぜ「正弦波」という、自然界では絶対に純粋な状態では観測されることのない、一種の絶対的虚構を想定しうるのか、ということである。それはおまえの見ているものが「もの自体」としての波ではなく、悟性によってア・プリオリに構成された対象だからだ、と言っても、論点を一段ずらしただけのような気がする。波そのものが「正弦波」という理念型を潜勢力として持っているからだ、といっても、下手すれば神秘主義っぽくなりそう。オートポイエーシス[4]とか、うまくすればこういう問題に多少実効的な答えが出せるんじゃないかという気もするが、現時点ではまだどっかでこっそり逃げてる感がする。
ともあれ、船酔いに苦しみながらこんなことを考えている自分が一番わからない。なんで、絶対的な円とか太さゼロの線とか無限とか超越とか、どろどろぐちゃぐちゃした現実の生のリアリティとと全く隔絶された、絶対にありえないようなことを人は考えられるのだろう。わからない。わからないったらわからない。
結局一匹も釣れずに戻る。
だいぶしてから、満男さんが漁から戻る。こちらとは違い、金目やらチビキやら、しっかり釣ってきた。さすがプロである。深海魚は急に気圧の低いところに持ってこられたから、口から空気袋が飛び出している。ほかに伊勢エビが数匹、流しの中でがさがさ動いている。
今日、NTTと役場の人が、高速船「ななしま」で東の港に着いた。トカラ列島のイントラネット整備だという。いまでも光ファイバーの高速回線が通っているのに、さらに何をするのだろうか。資料を見てもよくわからない。コミセンであった説明会に行くつもりが、エビの皮と身をはがすのに忙しくて、着いたときにはもう終わっていた。
胃は相変わらず重い。ビール一杯をやっとの思いで飲み込む。今日はこれ以上酒は飲まないようにしよう。というか、忘年会まで酒の香りもかぎたくない気分。目の前を焼酎がどんどん横切っていくのを見ると、胃がむかついてきた。飲んで翌日に持ち越すなんて、はじめてである。二時間ジェットコースターに乗ってきたようなものだから、それがまずかったのだろう。腹の中が変に攪拌されて、かもされてしまっている。
満男さんには、「頭はいいが腹が全然じゃねえ」とからかわれる。こっちは、「ハイ、胃腸の弱さには定評がありますから」と答えるしかない。まったく、タイでも平島でも腹がかもされる運命[5]なのだろうか。
今日は東の港を掘っている吉留建設のお兄さんが来ている。珊瑚を砕いた残土は、わざわざ往復3時間かけて、東隣の悪石島との間の水深600メートルだかの海底に捨てに行かなければいけない由。残土(=産廃)処理の法律が厳しくなったせいだが、このせいで工事は遅れるわ金はかかるわで大変らしい。宝島では残土を島の近くの海底に積み上げたら、そこが魚礁になっていい漁場ができたらしい。平島でも同じような一石二鳥ができないものかと、満男さんが話している。彼は島唯一の村議もやっているので、このことは議会で取り上げるかもしれない。
胃は相変わらず痛い。だいぶ青い顔をしていたらしく、尚さんが百草丸なる漢方薬をくれた。山羊の糞を小さくしたような粒を15粒ほど飲み込む。元は漁船の乗組員に配られる船酔い防止薬だという。しばらくして薬が効いてきたのか、多少楽になった。
客室はNTTと役場でいっぱいなので、母屋に布団を敷いて寝る。あっという間に眠りに落ちた。
4日目 島の古層へ(2009/11/10)
朝6時頃に強制的に起こされる。今日は下り便(名瀬行き)が入る日。昨日の人たちも、全員この便で出航する。
外は激しい風と雨。海は砕けた波頭で真っ白だ。昨日もずいぶんと波が高かったが、今日はそれ以下の天気である。しかし、こんな日でも船は平気で接岸する。岸壁に時折高波がぶつかり、潮を降らす。塩分混じりの雨粒が斜めに吹き付ける。コンテナを利用した小さな待合所の陰に人々は集まり、三々五々話をしている。傘を差すものは一人もいない。そんなまねをしたら、あっという間にメアリーポピンズ状態で海に飛ばされてしまう。
荷揚げされた荷物の一つに、「進研ゼミ」の段ボール箱があった。鹿児島の中学生は、自分の時で中3,最近は中2くらいから塾通いを始める。その分、島の中学生は大きなハンディキャップを背負っている。進研ゼミは、それを埋める数少ない手段だろう。
ICレコーダを持って、辺りの音を採集する。岸壁に打ち寄せる波、人の話し声、汽笛、十島丸のエンジン音、綱の付いたおもりを発射する音、フォークリフトの動作音など。デジカメとマイクに潮が容赦なく吹き付ける。まったく、精密機械には最悪の環境。そういえば、島の車や家電はあちこちさびているのが多い。昔はナンバープレートのない、さびて床が抜けた車が平気で走っていたらしい。
あまりにも天気が悪いから、出かけることもできない。もどって日誌を書く。だんだんやる気がなくなってくるのが自分でもわかるが、あと一日だけとおもってキバって書いている。これを3週間も続けている尚さんは偉大だ。
どこかからエロビデオの音が聞こえてくる。ヘッドホンつけろよ、ヘッドホン・・・
テレビ台の下に「ご家族トラブル—県民性バトル」なる背表紙の付いたコミック誌あり。じつは着いた日から密かに気になっていたのだが、さっき読んでみた。いわゆるレディースコミックである。全般的に、絵柄が15〜20年以上前の少女マンガを思わせる。読者の層もだいたいそのあたりなんだろう。裏表紙の広告欄で、新聞の折り込みからはすっかり姿を消したやせ薬を見かける。しかし、使用者体験談がなぜかギャルばっか。自分がこの手の広告をコレクションしていた10年前から時代が変わったのか。
1時間ほど寝て、風雨が多少弱まっていたので外に出る。ウネツズという東側に抜ける峠道(ちょうど島の二つの山の中間点、一番標高が低いところである)を、峠まで登ってみる。車が通れる道ができた今、滅多に人が通らない旧道である。竹に覆われた細い山道を数十メートルほど上ると、もう頂上。赤土の切り通しの脇には、この道を開いたことを記念する小さな石の碑が建てられている。ここから先、ヒガシの浜に降りる道は、もう竹薮にほとんど呑まれてしまっている。
それから、千年ガジュマルとよばれる巨大なガジュマルの木を見に行く。このガジュマルを含む原生林はちょうど部落の中央に位置しており、琉球寒山竹ばかりのこの島にあって、枯れることのない水源地となっている。これが本当に千年たっているのかはわからないが、太古の密林の雰囲気を感じさせる凄みは十分ある。無数の枝がうねうねと絡み合いながら空へ立ち上がるさまは、鹿児島で見た蛸の足をはるかに上回る触手っぽさだ。しかし、暗いので写真がちゃんと撮れないのには参る。
学校の裏から部落に戻る。また一軒、家を回る。その家のおばあさんはネーシ(祈祷師)の家系で、あとできいたら自身もやはりネーシであるという。なんというか、しゃべり方、話の内容がとても「教育的」なのだ。いわく、島の神様を敬うべし、夜は一人で閉じこもっていないで、あちこち出歩いてショケンマグレ(社交)すべし、尚さんはちゃんと病院で定期検査を受けて、体を大事にするべし、最近テレビをすこしづつ見始めたが、これから花と咲くべき若い人が無惨に殺されてしまう[6]いまの世の中は本当におそろしい、中之島・口之島はさておき、この平島ではそんなことはあり得ないがetc・・・
最後の一つについては補足が必要だろう。今でこそ両島とも人口百人程度であるが、前者は復員によって、後者は米軍軍政下の密貿易によって、戦後すぐの時期に例外的なほどの繁栄を享受したことがある。人口千人を超えた中之島では殺人事件が起こり、口之島の港は密貿易船でごった返して女郎屋までできた。このおばあさんは、このころの両島のイメージで今のせりふを言ったフシがある。
五時頃、ちょうど我々がコミセンの温泉に入っていたとき、島内有線放送で「朗読の時間」というプログラムがあって、そこでなんと尚さんの本の一部が朗読されたという。残念ながら完全に聞きそびれてしまった。しかし、平島国営放送の目玉エンターテイメント番組に尚さんの著作が乗る時代になるとは、びっくりした。
今日は胃がだいぶ回復してきた。晩ご飯に、トビウオの胃袋のシオカラというものが出てきた。これがめちゃめちゃうまい。トビウオ一匹から一つしかとれない超珍味である。八女から釣りに来ている川島さんが、臥蛇沖での大物づりのビデオを編集して持ってきたのを鑑賞。村主さんのナレーションが入るが、これがきわめてうまい。まるでプロレス中継を見ているかのような臨場感がある。竿先が海面に没し、電動リールが逆回転する。海釣りはハードだ。
隣の平山先生の小六の娘さん(尚さんファン)が、尚さんの話を聞きたいとやってきた。尚さん、だいぶ気合い入れて話す。荒川さんの指示で録音。島にいると、大人との話し方が否応なしにうまくなるようだ。なにせ、夜ごとやってくる酔っぱらいの大群に、子供の頃からさらされ続けるのだ。
その後、満男さんが酒蔵からハブ酒を持ち出してくる。その名の通り、でかいハブが一匹、大口開けて牙を剥き出しにした状態で、瓶の中にトグロを巻いているところに焼酎を浸してあるしろものである。ものすごくひえくさく、漢方薬のまずいのを飲んでる気分になる。しかも、飲むと体が熱くなる。カメラマンの荒川さんだけうまいうまいと飲んでいる。どれだけ酒が好きなんだろう。
ハブでみんなグロッキーになって酒は打ち止め。十二時頃、就寝。
5日目 「辺境」からの帰還(2009/11/11)
いよいよ帰る日。天気予報では波が昨日+1メートル(=3メートル)といっていたが、だいじょうぶだろうか。
雨は降っていないので、朝食後、尚さんと車で昨日のガジュマルのところへ行く。そこで採集したシダっぽい植物の名前を掌に書いてメモしていたところが、風呂に入って消えてしまったから、もう一度調べてくるのである。行ってみると、前は聞こえなかった鳥たちの鳴き声が盛んに聞こえてくる。風もないので、録音には絶好の環境。2分半ほど森の音を撮る。それから各戸に出発の挨拶回り。
港に行くと、岸壁に高々と波が打ち上げている。フォークリフトはすでに動いているようだ。陸に近いところに立っている古びたコンクリート倉庫(旧青年団倉庫)の前に、明治30年代に枕崎の鰹節業者がこの港をダイナマイトで拡げ、カツオ船の着岸可能な港へと整備したことを記念する碑がたっている。その後ろに、かつて船を引き上げるのに使っていた動力巻き上げ機の残骸が、塩害でまっ赤にさびた姿をさらしていた。
人々がつぎつぎと浜へ降りてくる。しばらくすると、遠くに船が見えた。島の近くでは潮流と風の影響により、波が特に強く立つ。その影響を受けて、船は遠目からでもはっきりわかるほど前後に揺さぶられている。ときおり、舳先が波をかぶって白い水煙が立つ。
こんな天気でも、船は難なく接岸する。十島丸の船長の航海技術は相当高いものと思われる。尚さんははやばやと寝に入ったが、残りの二人はデッキに出て見送りを受ける。
しかし、外洋にでても揺れは収まらない。下手に動き回っているとまた気分が悪くなりそうなので、寝る。じっと目をつむって揺れに身を任せていれば、気分は悪くならない。
ここから鹿児島までは、中之島と口之島を経由する。どちらの島も平より5倍以上大きく、港もはるかに立派だ。接岸時にあんなに揺れることは両島ともなかった。山一つ越えたらもう反対側がみえる平島を見慣れると、山の向こうに山があって、深い緑の原生林が一面に覆っている光景はまさに、「島が深いと、丘色も深かなあ」という気分である。
口之島出航後はひたすら寝る。6時頃、目が覚める。外はもう真っ暗だ。右舷に明かりが見える。ほかの船かとも思ったが、一列に並んでいるところを見ると、どうやら大隅半島らしい。反対側に回ったら、暗い夜空をバックに開聞岳らしきシルエットがかすかに見えた。船内をうろついたら、第二甲板のTVがBS-Jに合わさっていて、「銀魂[7]」が映っていた。人気投票の話の第一回目だから、テレ東では先週やっていたはずだ。急に東京に置いてあるHDDレコーダの予約のことが気になった。
いま、これを十島丸第2甲板右舷デッキのベンチで書いている。目を画面から上げると、水平線の代わりに大隅半島の海岸の明かりが視野を横切っている。いよいよ広いところにもどって来た。出たときには遠ざかる鹿児島市の明かりを見て、「しょぼい県都だなぁ」と思ったが、いまは「なんてでかいまちなんだろう」と素直に思える。
これから携帯の電源を入れて、パソコンでRSSとmixiをチェックして、撮った写真を現像して・・・やることはいくらでもある。
ここには書かなかったが、百人にも満たない小さな島の社会というのは実に人間臭い。閉鎖空間のただ中で生きるのは楽なことではないのだなぁと思わせられるような話もかなり聞いた。しかし、都会での己が生活をふりかえってみれば、やはり、ゼミやらバイトやら先輩後輩やら、人間関係の「島」宇宙を幾つも出入りしつつ、その中で己が立ち位置に常に不安を抱きながら生きる、コミュニケーションの蟻地獄みたいな状態になっていないとはいえない。その意味で、平島社会は自分が生きる現在とまぎれもなくつながっている。
しかし、一点大きく違うのは、都会では蟻地獄から逃げることがたやすいということだ。コミュニケーションを続けるのがどうしても厭になったら、アドレスを消して着信拒否でもかけておけば良い。しかし、島は違う。どんなに仲の悪い相手でも、かならずいつかは一本道ですれ違う。都会では人と人とのつながりがメモリー1件の薄皮一枚であるからこそ、そこに救いがあることもある。まあ、どちらが善でどちらが悪ということでもないし、そもそもどんな社会であっても普通に生きていればどっかで世間と折り合いをつけていかなければならないのであって、共同体の同調圧力と離脱可能性の割合は程度問題といえるのかもしれないが。
まだ現在進行形のことを急にまとめるなんてそんな器用なことはできないが、今回の旅で多少なりともわかったのは、自分はラディカルで濃密な旅にあこがれつつ、結局その濃さに噎せてしまいがちなタイプかもしれないということだ。小さなコミュニティに入って、そこでいろんな毒を浴びつつまとめられた仕事というのは、尚さんの書いたものを見れば分かる通り、きわめて面白い。でも、それが自分にできるかというと、ちょっと違う気がする。なにせ、すぐに腹を壊したりする虚弱体質だ。
でも、いくら史料や理論を積み上げたところで、「社会」のリアルな手触りにどこかで裏打ちされていなければ、それは堂々巡りの机上の空論、よくいって面白い作り話でしかない。やはり、意識以前のハラで感じる何かというものが、表に直接出ずとも、最終的に思考のクオリティを規定しているというのはあると思う。そういう意味で、今回の旅はいろんなことを考えさせてくれたし、確実にこれからものを考える際の下地となるはずだと思う。
平成二一年十一月十一日午後二十時四十三分。十島丸船上にて脱稿。
橋爪太作記す。
[1] アドルノ、サイードともアメリカへの亡命者である。
[2] コミュニティーセンターの略称。無料の公衆温泉にくわえ、役場の出張所や集会所がある。
[3] 変換後の音質がオリジナルよりも劣化するmp3のような不可逆圧縮形式に対し、それらよりも圧縮効率は低いものの、原理的に変換前後で音質が変化しないことを特徴とする、FLACやApple Loslessのようなデジタルオーディオフォーマットのこと。
[4] チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレーラによって提唱された、有機体作動のシステム論的理解を目指す概念。
[5]08年の冬にタイに行ったときも、現地の激辛調味料に(舌はともかく)腹が拒絶反応を起こし、毎朝必ず便所に駆け込む羽目に陥った。
[6] この頃テレビで話題になっていた英国人女性殺害事件や女子大生バラバラ殺人事件などを指しているのであろう。そういえば、市橋容疑者が捕まったのもちょうどこの日のことであった。
[7] 週刊少年ジャンプで連載中のマンガ、およびそれを原作としたアニメのタイトル。テレビ東京およびBS-Jにて絶賛放映中。筆者が毎週楽しみに見ている番組の一つである。
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