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第03回 鹿児島県鹿児島郡十島村中之島

2011/09/12

3月以来の鹿児島は超灰だらけだった。着いて早々、父親が本日締切の『現代思想』からの依頼原稿のチェックを依頼してくる。内容はともかく、てにをはは滅茶苦茶だし、ちょっと長い文章になると主語がすぐに行方不明。大幅な改稿手術の末、何とか世間様にお出し出来るものをでっち上げる。かつてはなかなかの名文を書いていただけに、父も歳を取ったんだなあと寂しくなった。

台風11号が去ったと思ったら、新たに熱帯低気圧が接近し、船の予定が大幅に狂ってしまった。当初の目標であった平(たいら)島は抜港予定という。そんな不安な状況の中、十島丸は鹿児島を夜11時50分出航。同行は尚友塾頭、トカラ塾青年団の加藤ヨシアキ、および著述家の斉藤純さん。

まだ船が錦江湾を走っている頃から、尚友さんを除くわれわれ3人はロビーで飲み始める。途中で琉球大医学部の学生と東京から来た観光の女性が加わり、結局のところ深夜2時まで飲む。

2011/09/13

起きてすぐ、二日酔いとわかる。とうの昔に外洋に出た船は、東シナ海の荒海の只中でかなり揺られている。胃がむかつく。

舷側に出ると、進行方向右側に臥蛇島と平島が見えた。時々波間にトビウオが飛ぶ。1年戦争初日なのに、ゲロ・ドルバ照準で口からビームが発射されそうな不穏な気配。「ララァ、私はどうしたらよいのだ……」。

前日聞いた通り、船は中之島から平島を飛ばして諏訪之瀬島に直行。このまま乗っていると最南端の宝島まで行ってしまうので、ひとまずここで下船することにする。

諏訪之瀬島に来るのは初めてだが、かなり大きな島だ(中之島に次ぐトカラ第2位の広さ)。そのためかどうか、植生は平島とさほど変わらないが、緑が深い。ここでは尚友さんの古い友人である長沢哲夫さん宅にお世話になる。相変わらず胃のムカつきは止まらず、長沢さんの八角形の家(島の木を使った自作)の床にへばりついてかろうじて息をしている状態です。

5時間ほどして十島丸が折り返してくる。台風が接近している今となっては、これを逃せば次の鹿児島行きの便は数週間先だ。ところが加藤・斉藤両氏は仕事がある社会人である。むろん、このまま船を逃すこともできるが、数週間の無断欠勤の末にたとえ戻ったとしても、そこに自分の居るべき席は無くなっているだろう……。かくして両氏はわずか5時間のトカラ滞在で鹿児島に取って返し、組織社会の社会契約を忠実に履行=再生産した。

一方、尚友&橋爪は仕事が無い、誰にも何も期待されていない脱‐社会人である。群れの中心へと見えない鎖で引き立てられる家畜2人を尻目に、(野良ネコならぬ)野良ニンゲン2人は中之島で下船した。

中之島はさらに島が大きく、緑が深い。まさに「島が大きかと、丘色も深かなあ」である。この島で「海游倶楽部」というダイビングショップをやっている早川さんと奥さんの吉川さんが迎えに来てくれた。名古屋からIターンしてきた早川さんは、尚友さんの友人である。

海游倶楽部は、こと客商売に関してはひどくいい加減なトカラでは、掃き溜めに鶴と言うべき素晴らしい宿だ。建物が綺麗だとかごはんがおいしいとかそういう基本的なところに加えて、トイレにちゃんと便座クリーナーがあるとか、食堂にワインセラーがあるとか、おまけに本棚になぜか小玉ユキの短編集が3冊あるとか、細かいところまでアメニティーが行き届いている。

荷物を置いて、中之島東区の共同浴場へ。ここの浴場は、防波堤のぶあついコンクリの壁を掘り込んだ上にトタン屋根を掛けた、まるでトーチカのような建築物だ。

夕食の時聞いた話だと、近くの家では地デジの入りが悪いので、地上波チャンネルを衛星から受信しているらしい。難視聴地域対策特別放送は東京から送信されているから、鹿児島にはキー局がないテレ東とかが見れる。午後8時45分のNHK総合チャンネルで映るのも「首都圏ニュース845」だ。一方、そこからほんの少ししか離れていない隣家では本来の地デジの電波が届くから、鹿児島ローカル局が映っている。

地理的にはわずか数十メートルの距離で全く違うチャンネルが展開する中之島テレビ事情は、ローカルとナショナル/グローバルがいたるところでねじれて結びつく、現代のトカラを象徴する光景だ。

2011/09/14

海游倶楽部にお知らせを持ってきた駐在さん(ちなみにトカラ七島ではこの中之島にしか警察はない)と近所に住むクニさんとを加えて、お茶を飲む。この人には尚さんを思想的変質者としてマークするだけの眼力があるだろうか……。

臥蛇島の写真を撮りに行きがてら、中之島西区の船着き場の跡を見る。かつて西区と東区は激しい対立をしており、船着場からハシケから浴場から、あらゆるものが2つずつあったそうだ。船着場はひとつになったが、未だに浴場は2つある。

港のそばの緑地には、東大の何とか探検部がキャンプ中。海に潜るつもりだったが、低気圧接近のため未だ果たせないでいるらしい。陸に上がって日干し状態のダイバーたちは見るからに手持ち無沙汰そう。吉川さんはこれを東大日焼けクラブと称している。

戻ってからPhotoshop、Illustrator、InDesignのデザイン三種の神器を立ち上げ、トカラ塾が役場から請け負った仕事を始める。

日暮れ頃、早川さんからミノルタの白レンズとα7デジタルを借りて、もう一度今度は夕日に染まる臥蛇島をねらって港へ出かけるが、水平線に雲が多く、思ったような写真は撮れなかった。撮ったデータはすぐにPCに取り込んで、Photoshopでレタッチ。作成中のデザインに貼り付ける。

そのあとで東区の船着き場の跡を見る。こっちはもう完全に埋もれており、全く痕跡がない。海岸線ではそこら中でお湯がポコポコ沸いている。指宿みたいだ。

夕食&晩酌中に、昼間のクニさんがやって来る。尚さん交えて島の話。

2011/09/15

終日デザイン作業。なんとか完成し、データを役場にメールで送る。

夜、近所に住む吉岡さん宅へ尚さんと伺う。この人の父親は吉岡亀太といい、そのライフ・ヒストリーを社会学者の中野卓が30年ほど前に記録している。

2011/09/16

朝から近所に住む半田正夫さん宅に出かけ、話を聞く。尚友さんはこの人のライフ・ヒストリーを数年間にわたって記録している。

そのあともう少し足を伸ばして、底なし池へ。戦時中ここに特攻機が不時着したという記録があるが、周囲の山の高さから考えると、ここにピン・ポイントで降りるのは難しいのではないだろうか。

そこから少し行くと、底なし池の水力を利用した60キロワットの水力発電所があり、シマの反対側の海岸が見える。

日の出分校跡も見る。校舎はもうないが、ちゃんと3番までコースラインも引かれたプールがまだ残っていた。しかし、その全長わずか10メートル! はじめは変わったペイントがされた用水池だなあと思っていた……。

午後、半田さんに東部落の墓を案内してもらう。ずいぶん沢山の墓石が土台から外されて墓地の外に放り出されていたり、あるいは天辺の石だけ横たえられている。それだけ多くの墓が島外に行ってしまったのだ。これは、もはや人の墓場というより墓の墓場である。

そのあと明治中期に同地に奄美大島から入植した徳丸家の現当主に会う。尚友さんとはかつて一緒に中之島にあった製糖工場で働いていた仲であり、昔話に花が咲いていた。

さらに、中之島天文館から市丸旅館跡へ。いずれもこの島の過去の栄光の跡である。

2011/09/17

7時くらいに目が覚める。近所を散歩。

この辺りもかつては家が山沿いに数十軒建ち並び、きび畑が広がる繁華な土地だったようだが、今では笹に食い破られたボロボロの空き家だらけ。きび畑も元の竹林に逆戻りだ。

ちなみに中之島に生えている竹もだいたいリュウキュウカンザンチクだが、平島のそれよりはるかに背が高い。3倍ほどあろうか。竹を食べる牛がさほど居ないことが原因かもしれない。

再び半田邸に話を聞きに行く。

午後、昨日の墓をスケッチしに行く尚友さんについて下へ。軍政下密航時代に密輸物資を積んだハシケを浜につけるため、岩をダイナマイトで砕いて造られた港跡を見に行く。海沿いの防波堤に沿って家がずっと並んでいる。ときどき人の気配がしたり、遠くで人影を見かけたりするが、通りはひっそり閑、僕はすっからかん。

墓に戻ったら、尚さんがスケッチをほぼ完成させて、現在彩色中だった。その色は、超・記憶色。

中之島小・中学校をちょっと見る。小学校が7人、中学校が3人だとか。全島民が100名強なので、それに比べたら少ない部類だろう。とくに、人口70名そこそこの平島と比べたときの子どもの少なさは群を抜いている。2階建ての立派な校舎だが、がらんとしている。

それから西区の集落へ。こちらはさらに空き家が多く、住人も後期高齢者ばかり。尚さん曰く「屍臭が漂っている」。墓地は、やはり多くの墓が外されたり倒されたりしている。

西区にある島立神社は鳥居2基(ただし1基はプラスチック製)に参道および拝殿+本殿という超豪華仕様。さすがは主島。豪勢である。

今日は西区の温泉に入って帰る。

坂を上り、高尾台地のまっすぐな直線道路を走っているとき、「いま、自分は50年後の日本に来ているのかもしれない」という気がふっとした。ぽつんぽつんと空き家になっていく家、住人は老人。子どもはわずか。遠い未来の日本で、ゆっくりと滅亡していく世界の静かな日常を描いたSFマンガ『ヨコハマ買い出し紀行』(芦奈野ひとし)の世界に迷い込んだような気分だ。

そういえば、ここは夜もとても静か。平島はもう毎晩けたたましく酔っぱらいが家々を行き来するような社会だけど、こちらは来ても数杯飲んだらまた帰ってしまう。平島に行ったときは尚さんも夜11時過ぎまで起きていて、そのまま布団も敷かずに倒れるような毎日だったけど、ここでは毎日9時で晩酌を切り上げ、そのあとすぐ寝てしまうような健康的な生活を送っている。

2011/09/18

朝から尚さんと平島の遠島人についてすこし話す。それから半田さん宅へ資料を借りに、今日は歩いて行く。

途中でこの日の出地区の墓を見る。数基の比較的新しい墓が並んでいる。改葬されたものもある。

今日はいつにも増して風雨が激しい。そんな中、尚友塾頭はテラスで一宿一飯の恩義に報いんとカゴ編みに励む。私は持ってきた『よつばと!』(あずまきよひこ)を読んだり、頼まれ仕事のテープ起こしを10分強やって飽きてやめたり。

2011/09/19

朝方晴れ間も見えるが、相変わらず降ったりやんだりの最低なお天気。湿度はここ数日70%を切ったことがない。除湿機の水槽があっという間に満杯になる。こんな水分いっぱいの大気じゃ、もうじき海と空の区別がつかなくなったお魚が泳いでくるんじゃないだろうか。

船がやって来なくなってもうじき一週間だが、食料はマイナス60度の冷凍庫で大量に貯蔵されているし、外界の情報はTVとネットでいくらでも入ってくるから、30年前のトカラで1ヶ月船が来なくて島中の男が殺気立ったような狂おしさはない。しかし、だからといって閉塞感がないわけではない。どこでも見えるのに、どこにも行けない苦しさというのもあるのだ。

宿のWiFiを使ってトカラ塾のホームページを更新し、メールマガジンを2本打つ。七つ山方面に出かけようと思ったが、風雨が激しく断念。泊まっている離れの掃除と、表の溝さらいをする。居候の我々にとっては、せめてもの気持ちである。

尚友塾頭のカゴ編みの手伝いをしながら、今後のトカラ塾のことなどを話し合う。何とか、次回の「ナオの南風語り」の構成の見通しをつけることができた。

ちなみに今日はここに来てから1枚も写真を撮っていない。どこにも行かなければそんなものか。

『よつばと!』6巻くらいまで読み進む。連日大雨が降り続く今となっては、正しい夏は、もはやマンガの中にしかない。

2011/09/20

台風を押しとどめていた高気圧が後退し、いよいよ北方に向けて進み始めたようだ。今までで一番激しい雨。朝から仕事をして、テープ起こしを全て終わらせ、東京方面へメールで送る。

尚さんは私が持ってきていた網野善彦『日本中世都市の世界』を、ノートを取りながら精読中。いろいろ新たな発見があったようなので、しばらくこの本は尚友邸に貸し出すことにした。

例の探検部の人たちが気象を聞きにやってくる。今日まではまだ潜りは無理のよう。いずれにしても数日中に船がやってくるのは確実なので、それまでに完成するよう、今日はカゴを気合いを入れて作る。

作業終了後の午後3時頃から下界の部落に行く。温泉に入った後、寄木の浜で永田商店(島で唯一の商店)で買った缶ビールを飲みつつ、道ばたに座り込んで尚さんと話していると、先日会ったの徳丸家の現当主が通りかかり、座に加わる。この一連の流れ、なんだか平島を思い出して酔いが早く回る。その後近くの勝治さん家へ。ここの奥さんがうわさのガラモンか?

勝治さんの家は、昔は先祖の座であった床の間に、42インチのテレビが据えてある。いろんな意味で30年前では考えられない光景。

今日の午後の一連の流れは平島を彷彿とさせるものがあり、久々に頭が120%働いた。しかし、高齢化の進むこの島に、このノリを持続させるだけの若さはない。ダラダラ飲んだりせず、みんなおとなしく帰っていく。というか、逆に平島が今のトカラでいかに「異常」な社会かがよく分かった。中之島を知ることで、平島にまた行きたくなってしまった。

『よつばと!』は全部読んでしまったので、『けいおん!』(かきふらい)を読み始める。はやくピンドラ(この頃やっていたTVアニメ「輪るピングドラム」のこと)の続きが見たい。

2011/09/21

昼頃、尚さんの携帯の充電器を借りに、下のコミュニティーセンターに泊まっている東大海洋探検部のところへ。ついでに『埋み火』とCD、それに2人の名刺を渡してトカラ塾のオルグ活動をする。

そのあと半田さんを乗せて島の反対側の七つ山へ。途中ずいぶん山道を走る。平に慣れてしまうと、中之島は実に山深いところだ。これが島なら、奄美大島なんてもはや大陸としか思えない。

七つ山の海岸で今後のトカラ塾の活動用にときれいな珊瑚の欠片や貝を拾う。しかしあまりそういうものはなく、石がゴロゴロ。波が強いので小さなものは大体流されてしまうらしい。そういえばこちらの浜には砂浜様のものが全くない。尚さんは半田さんに話を聞いている。

それからさらに先のヤルセへ。途中でクニさんにすれ違う。この先に農園があるのだ。このあたりはヤギが多いところで、捕まえようとしている青年に出会う。ヤルセのガジュマル林は、半田さんに言わせればかつての祭祀場跡であったという。たしかに、恐ろしく神々しい土地だ。石を抱いた巨大なガジュマルがある。

今日は久しぶりに晴れた。オタケの頂上が初めて見える。夜に入り、全天ほとんど雲無く天の川が天頂を横切る。宿の前の道に出て、尚さんとしばらく話す。だいぶ夜風が冷たくなってきた。

2011/09/22

今日も朝から快晴だ。台風が通過した後はだいぶ空気が冷たい。

朝方、下りの船が着いたので、海游倶楽部も今日から客が入る。居候の身分としては、もはやこれまでのように宿の車を勝手に使用していられない。文明の利器を奪われた我々は、「徒歩で」歴史民俗資料館に向かう。トカラの民具やら各島で出土した中世〜近世の陶磁器やらが展示されており、それなりに興味深い。11時頃まで見る。

その後、宿に戻る。客は着いたばかりでもう潜りに行ったらしく、全員出払っている。海洋探検部の連中も、やっと日焼けだけじゃなくて潜りができるとあって、七つ山のほうに潜りに行ったという。我々はといえば、客がテーブルの上に放置していた爪切りを勝手に借用して、9日のあいだに伸びた爪を切る。

船は午後6時過ぎに着くようである。それまではヒマなので、やはりマンガを読む。『けいおん!』は4巻目で平沢唯ら3年生の4人が卒業して高校生篇が終わってしまったので、『第七女子会彷徨』(つばな)を読む。手元には2巻までしかないのであっという間に読み終わってしまい、『煩悩寺』(秋★枝)を読む。これはまだ1巻しか出ていないのでさらにあっという間に読み終わってしまい、ついに林田球『ドロヘドロ』に手を出す。これがめっぽう面白く、ぐいぐい読んでしまう。尚さんがのぞき込んできて、カイマン(主人公のワニ顔の男)が描かれた扉絵を見て「仁王像みたい」とその画力に感嘆していた。

少し早めに下に降りる。コミセンでは老人ばかりが大量に集められて、各自のこれからの身の振り方および島起こしの方策を考えるというような趣旨の集まりが持たれていた。幾つかのグループに分かれた中で、半田さんのいるテーブルはその独演会と化しているようであった。

今日は今までで一番沖島(諏訪瀬・平・臥蛇)がはっきり見える。昨日まで白波が立っていた海はもうべた凪。寄木浜で弁当を食べ、追加で珊瑚や貝を拾う。そうこうしているうちに日没。

午後7時ごろに船が入港。港で尚さんは旧知の友人たちと別れを惜しむ。

2等船室に乗り込んだら、入り口付近に尚さんの苦手な人がいた。ゆえに、尚さんは船室を出入りするたびにタオルで顔を隠す。そっちのほうがかえって不審だと思うのだが……。

あれだけべた凪でも、それなりに揺れる。『ドロヘドロ』を1巻分読んでから、口之島も過ぎた8時過ぎに眠りにつく。明日は午前3時に鹿児島港到着だという。

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