第05回 風車翼にかけた人生
エリック・グローヴ・ニールセン
風車翼にかけた人生
私が7才の時、ベルギーのF-84戦闘機が私の生まれた農家から35メーターの所に墜落した。私にとってそれはすばらしい経験であり、すぐに飛行機の仕組みを研究し、手作りの模型飛行機で実験を始めたのであった。その数年後、私は模型飛行機の競技に夢中となった。故郷の村の精神的宗教的風土としてホイスコーレ運動が盛んなところで、「たたかいが人生を育てる」という気風に満ちていた。私の祖父はナイジェリアで35年間宣教師をつとめていた。
1969年私はデンマーク工科大学で土木工学を学び始めた。進んだ技術をもっと身につけたいという意欲に満ちあふれていた。同時に私は大学の航空部でグライダーをやって過ごした。1970年、私は大学である環境問題の集会に参加し強い感銘を受けた。そして大学のエコロジーグループに加わった。そのころ私の未来の夢はエコロジー社会が可能なように世界を作り替えることであった。環境を壊すことを技術者はしてはならないのだ。
私たちは共同生活の村に住み、そこで私は太陽熱装置の実験を行った。地下室にはコンポスト・トイレをつくった。1973年、私は大学を中退して最愛の妻トヴェと一緒にお金をためてヴィボーの西のスパーカーの廃止になった農場を購入した。そこで太陽熱装置の製造に取り組むつもりであった。ヴィボーではNOAHの活動に取り組んだ。NOAHは後にOOA(原発に反対するデンマークの全国組織)とOVE(市民レベルで原発に替わるオルタナティヴエネルギーの開発を目指すデンマークの全国組織)に分かれた。
グラスルーツ(草の根)とグラスファイバー
1975年のNOAHのキャンプはエネルギー・ウイークであった。そこで私は直径2.8メートルの小型風車を建てた。グラスファイバーの翼は「工房」と称された農家の入り口の広間でつくられた。風車発電はとりわけ、キャンプの冷蔵庫のために必要であった。
75年の冬、私たちはヴィボーセンターに次の風車発電を建てた。その風車は博物館長のピーター・シーベアの"ヴィボーの風と天気"という展示の一部として設置された。ある寒い冬の夜、風車はヴィボーの町の中で暴走した。私は止めてロープで縛った。次の年の春その風車は移動可能な風車として登場した。原発の賛否をめぐる論議のためにデモンストレーションとして各地を巡回させるためであった。
OVEは1975年2月OOAから生まれた。原発に反対するためには私たちが原発に替わるエネルギーを創り出さねばならないと言うことが明らかになったからである。その会議の最後にポール・オヴェゴー・ニールセンは「共に歴史の歯車を動かそう!」と締めくくった。
今や前進あるのみだった。OVEの1976年の全国大会で、プレーベン・メゴール(現フォルケセンター所長)があたかも文革時代の紅衛兵が毛沢東語録の小さな赤本をかざして叫んでいたように、「翼型理論」という本を頭上にかざして叫んでいた様をありありと想い出す。"風車翼設計の基本はこの本にある。ただ実践のみだ!"
国中に手作り風車運動が始まった。木製翼、鉄製翼、ドラム缶を縦割りにしたもの等々、様々なものが試みられた。リセアーは彼個人の風車発電を発展させて、デンマークで最初に風車発電の量産を始めた。ツヴィンドでは2000kW大風車に向けた基礎工事が始まった。
エケア・モーセ翼
OVEがアレンジした最初の風車発電コンペ、"ウィンドミル・チャンス"で、鉄製と木製の翼には問題があることが明らかになった。そこで私はそれらのパイオニア達に、標準的な風車翼を供給できないかと考えた。私は1977年、エケア風力エネルギーという会社を設立した。私自身と一名の従業員だった。私たちは納屋に電気を引き、暖房設備と簡単な排気装置をつくり工房を自作した。あらゆるものはメーカーから安く手に入れた。経済的裏付けとして銀行からの2万クローネの借金であった。それも2ヶ月後には7万クローネに増えた。当たり前だが銀行は私たちの土地を担保に取った。銀行からの借金があることは仕事を頑張る良い励みになった。
その頃、ツヴィンド風車の建設にたずさわっている研究会グループが4.5メートルのグラスファイバー翼を作った。翼のデザインはイエンス・ゲルディングが担当していた。イエンスは風車発電グル-プのメンバーであり、同時に西ユトランドエネルギーセンターの一員でもあった。76年から80年にかけて多くの手作り風車を志す人たちは、エネルギーセンターに風車建設のための情報を得たものだった。4人のヴァイレの人たちがそのPTG風車翼と、それを作るための型枠を借り出してきて、地元のグラスファイバー工場でコピーを作る許可をもらった。というわけで、その果敢な手作り派は4セットの翼を手に入れたわけだ。
最初のセットは電気技師のライフ・ニールセンの風車に取り付けられた。だがグラスファイバー工場は製造の際大きな失態をしでかした。数ヶ月の運転の後、1977年6月11日翼は弱風で付け根から折れた。西ユトランドエネルギーセンターのイエンス、若い学生、手作り風車派のヘンリック・スティスダル、それにほやほやの風車翼製造業者たる私からなる自主的な「事故調査委員会」をつくり、ツヴィンドのオンボロベンツに乗り合わせて事故原因の調査に訪れた。南ユトランドの現場に向かう途上、ファンベルトが切れたので修理工場に寄らねばならなかったというオマケが付くが。
結局、私は風車翼づくりに係わることにすっかり手が引けた工場側から、4.5メートル翼の型枠を購入した。価格は2500クローネだった。イエンス・ゲルディングのラミネート方式で、私たちは4.5メートル翼の製作を始めた。最初のセットは77年11月26日、機械工のスヴェン・アドロフセンに届けられた。1978年の春、アドフセンは4.5メートル翼を用いた11kw風車発電の量産を始めた。リセアーに対抗する最初の風車発電量産業者であった。
私が風車翼づくりを始めた頃は注文によって作った。たった一人の従業員のクリスチャンはスウェーデンに去って行っていなくなりで前途は暗かった。私はユトランドポスト紙に広告を出し、古いフォルクスワーゲンのマイクロバスに翼を積み、車の後ろに「鍛冶屋さん、風車発電を作ろうではないか!」というステッカーを貼り、ユトランドの鍛冶屋という鍛冶屋を訪問してまわった。だが、この鍛冶屋巡りは大して成果はなかった。
1978年1月プレーベン・メゴールから、NIVEエネルギー協会の5名からそれぞれ、同じデザインの22kw風車発電用の風車翼の注文を受けているが作れるか、という問い合わせが入った。翼の回転数は75RPMで、直径は10メートルであった。大歓迎の仕事であった。私は5メートルエケアー翼の設計に入った。15歳の頃から私は「翼型理論」という本を持っているが、それには飛行のための多くの翼型データが記載されている。このバイブルは模型飛行機をやった頃からのものであるが、76年に出版されたクラウス・ニブロとカール・ヘルフォートの「太陽と風力」というハンドブックは私の翼製作に特に重要な参考になった。翼開発製作はどんどん進んだ。売り込みや銀行からの借金もなく補助金も一切無しで。
私の弟ヨハネスはツヴィンドの風車グル-プであった。私たちは人々が修道院に救済されると思っているように、世界を本当に変革したければツヴィンドに参加しなければならないのであろうか。そのような考えはもうあきあきであった。犬と子供とテレビに囲まれた核家族もまたよりよい世界へ貢献できると私は明言できると思う。私たちと同じく国中の至る所で数多くの人々が同じ目標に向かってたたかっていたのだ。
私が5メートル翼をつくる際、どのような方式で型枠をつくるべきかを決断をしなければならなければならなかった。ツヴィンドPTG翼は伝統的なデンマークの方式と全く異なるところはなかった。ローリング・ストーンズの歌ではないが私と妻のトヴェはツヴィンドと弟ヨハネスが行った道とは反対の道を行った。型枠をどうするかという私の個人的決断が後々、風車メーカーとなったヴェスタス、ノールタンク、ボーナス、エネコンの風車とがリセアーとウィンドマチックの風車と反対の道をたどったことにつながったのだ。
最初の難関を切り抜ける
1978年5月26日、私は最初の風車翼を出荷した。同時に国中の手作り派の人たちから新しい注文が舞い込んできた。既に量産を始めたスヴェン・アドルフセンとハーボーの機械工場のカール・エリック・ヨアンセンなどに加えてである。夏の間に最初の10セットの風車翼が飛ぶように売れた。ヒンメルベアのエネルギーコンペはオルタナティヴをめざす熱心な草の根派が共に集う行事で、スピーチをする者あり、展示あり、音楽ありの魅力的なイベントであった。アナース・ラーセンは自作のバイオガス装置を展示し、ツヴィンドのテントは原発とツヴィンドミルの展示があった。
1978年9月2日、カール・エリック・ヨアンセンの22kw風車が暴走した。翼は遠心力でハブからすっ飛んでいた。9月15日にも再び乱調が起こった。暴風時に鍛冶屋のクローの風車が私の5メートル翼と共に暴走したのだ。完全に壊れてしまっていて、風車の持ち主がかろうじて判明できる部分はタワーの格子部分だけであった。ドラム式ブレーキでは風車を止めることができなかったのである。
鍛冶屋は私の翼が暴走に耐えられなかったとして訴訟を起こすかもしれない。そのように考えると、この憂鬱な事件以来、夜もゆっくり休めなかった。翼に空力的ブレーキ(スポイラーブレーキ)を埋め込まなくてはならなかった。私は製作を続けるのを止めて翼の安全システムの模索を始めた。とりわけ私は、そのための開発資金と仕事場が必要であった。ラース・アルバートセンとニールス・マイヤーの世話で、私はオットー・ヨハネス・ブルンス基金を紹介してもらった。1週間後、私は5万クローネを申し込む応募をした。それによって経済的に最悪の状態から抜け出すことが出来、スポイラーブレーキの開発を進めることが出来た。わが社は最初の危機を切り抜けた。
はじめ私はパラシュート・ブレーキ(スウェーデンのIRWIN社の)に取り組んでいた。それはまさにツヴィンド風車に用いられている方式であった。(訳注:ツヴィンド風車翼の先端部にはパラシュートが埋め込まれていて、万一翼が暴走した時遠心力で飛び出し暴走を抑える仕組みになっている)"だが"、と賢明な手作り派のヘンリー・ヨハンセンは言ってくれた。"そのたびに風車の持ち主がパラシュートを元に戻すのがいやになったらどうするのかい?ゲッサー風車のように先端部がねじれるような方式にしたらどうですか。"
私の生まれた年の1949年に出されたユールの特許申請書を手に入れ、グラスファイバー翼のためバネ式のシステムにつくりかえた。試作の1セットを作る際、鉄製の部品作製に関してスヴェン・アドルフセンとカール・エリック・ヨアンセンの工房でいろいろ手伝ってもらった。11月13日、私はカール・エリック・ヨアンセンに完成した翼を発送した。2日後に彼から電話があった。"翼は取り付けられた。スポイラーブレーキの試験をするぞ!" 風速は15-16メートルという。それは危険だから8-10メートルになるまで待つべきだと私言った。だがカールは全然聞き入れてくれなかった。私はフォルクスワーゲンのバスに記録計や他の測定器を積み込んだ。
そこで私はスポイラーブレーキの効果を実証することのできる信頼できる人物を得た。その人はユトランド工学研究所動力部門のカール・ツェイルナーであった。彼は航空機の構造と空気力学の分野によく通じた専門家であった。風車は不気味なほど早く回った。安全装置が働き翼端にひねりができるまで私たちはしばし息を呑んだ。スポイラーブレーキから発するうなり音は「経済と物理」10月号に心配するほどのことはないと記された。
技術的問題の解決をめぐって幾多の議論が工房やカール・エリック・ヨアンセンやスヴェン・アドルフセンの台所のテーブルでなされた。ママレードとコーヒーと手作りフランスパンの傍らに図面のスケッチがあった。同じくアドルフセンの風車にもスポイラーブレーキつきの5メートル翼をつけた。
1979年に本格的に活動を開始したリソーの小型風車試験所が最初の認証番号A-1を出したのは彼の風車だった。所長のヘレ・ピーターセンはスヴェン・アドルフセンが売った風車に付けられているスポイラーブレーキを実際に見ていた。
私の顧客はまさにリスクをしょったパイオニア達であった。手作り派は勇敢に進み、ある者はささやかに量産第1号へと向かった。いくらかの人たちは左派指向であり、いくらかは進歩的な人たちでほぼ同じ方向性の人たちであった。ただ家に安い電気が欲しいというだけの人もいた。どっちみち原発はだめとしても、国の専門家達も電力会社もリソー研究所も、デンマークがどのようなエネルギー政策をとるべきか決めることが出来なかったのだ。
1979年5月29日カール・エリック・ヨアンセンはヴェスタスと特許契約をした。カール・エリックとヘンリック・スティスダルは、風車産業がより大きな産業へと移行するため、開発を進めその製品の完成度を高めるためには完璧なよいコンビであった。ヴェスタス社のクレーン部門には、技術者のビルガー・マッセンと社長の息子のピーター・ハンセンがいて、風車産業への参入をとても願っていた。私はカール・エリックの会社への翼供給業者から、ヴェスタス社という大規模で多部門からなる企業への供給業者になった。
2-3ヶ月後、タンク車のメーカーのノールドタンク社が独自に5メートル翼風車を開発した。ダンレーン社(後のボーナス社)のエゴン・クリスチャンセンも同じくヴェスタス社とは別に22kW風車を開発した。1980年の初めにはさらに、オランダ、ベルギー、ドイツ、スウェーデン、フェロー諸島の手作り派に翼を供給した。ドイツの顧客でとりわけおもしろかったのは、エネコンという小さな会社をやっている電子技術者のアロイス・ヴォベンであった。ヴォベンはグレーのメルセデスのボロ車に牽引されたトレーラーで品物を受け取りにきた。エネコンは今、ドイツ最大の風車発電メーカーである。
エリックの要請によって、私は1979年おそくから7.5メートル翼の開発に取りかかった。同時に私はより大型な翼を製作するため、もっと大きな建物が必要だった。そのため「土地開発」の補助を申し込んでいて、その決定を首を長くして待っていた。その間は板張りのテントで最初の7.5メーター翼をつくった。夏には暑くなり過ぎ、グラスファイバーの作業に差し障りが出るので、テントをスプリンクラーで冷やさねばならなかった。ノルウェーに夏休みで4日間行っている間に土地開発から断りの電話が来た。彼らは風車発電の未来を信じてなかった。土地開発事務所の電話交換手は高飛車に「だいたい風車で電気を起こすなど本当にできるのですか」と問うたものであった。
1980年の秋モンステッドの建物に引っ越した。グラスファイバー翼の生産を急がねばならなかった。最初の4年間は年々400%の売り上げ増があった。従業員の数は79年は4人で80年は13人に増えた。はじめの顧客は手作り派のパイオニア達であったが、今や企業の量産向けとなった。従業員のキャラクターは少しずつ変わった。最初は同じ目的に向かって共にたたかう長髪の草の根の仲間達ばかりであったが、次第に労働組合をつくり、より良い労働条件を要求する人たちへと変わったのである。
1980年12月ヴェスタスへ55kW用翼を20セット売り注文は激増した。ところがクリスマスイブの9日前ヒナループのヴェスタス55kW7.5メーター風車翼が壊れた。翼は付け根から2.5メーターの所から折れた。この風車は他の多くの風車と同じくパワー旋回駆動であった。風車は間もなく運転禁止になった。なぜなら翼には過大な荷重が繰り返し掛かっていたことが判明したからである。事故の数日後に私たちはモンステッドの製作所に翼の試験台をつくり、7.5メートル翼に荷重を掛ける試験を行った。翼はスタビリティに問題があり暴風はその結果であった。直ちに生産は中止した。7.5メートル翼の構造の再検討が、ヴェスタスのヨーン・ティストロープとリソー研究所の冶金部門のオエ・リストロープとの共同作業で始まった。改良された翼は製作費が高くなり、既に売った以前の翼を新しい翼に交換する際にヴェスタス社がいくばくかのお金を払ってくれたにしても経済的には大変苦しかった。
困難な時代
1981年春のある日、従業員の一人がノールタンク社へ翼を届けた時のことであるが、その帰り道、銀行が閉まる前に支払いを済ますために車を走らせていた。翌日は給料日で口座から多大に引き落されるからである。すると従業員のマーチンから電話があった。「5万クローネ足りない!」私は彼にノールタンク社に再び戻って翼を届けるよう言った。1時間後に引き落としはぎりぎり可能になったと言うわけである。
それでも経済的にはますます苦しくなり過越祭(ペンテコステ)の前には工場と私たちの家の電気が停められてしまった。家の水道は電気がなければ使えない。そこで妻のトーヴェはバケツで井戸から汲まなければならなかった。その頃、私たちの子供は1歳と3歳であった。過越祭の間に、私はスクラップ置き場から27kwのディーゼル発電機を見つけてきた。過越祭の後、私たちは電力会社に頼らず活動ができるようになった。スターターボタン一押しで生産が再開できたというわけだ。
この間私はコロネットボート社と特許契約の件で話し合いを続けていた。契約はスキーヴェ実業学校校長ニールス・ビエール氏を介して行われた。ニールス・ビエール氏はデンマーク投資基金の設立者の一人であった。ビエール氏は以前、現在のコロネットボート社長と共に船を扱う実業家であった。コロネット社は百万長者向けのヨット製造業から風車翼づくりの方へ真剣に取り組みたいと考えていた。
1981年6月、新設のオルタネギー社に会社の設備と構成人員が引き継がれた。新しい従業員は訓練を受け、生産はコロネット社の建物で続けられた。顧客達にとって翼の入手が出来なくなるということはなかった。名前が新しく"アエロスター"となっただけだ。オルタネギー社はエケアー社から全ての顧客を引き継いだ。ヴェスタス、ノールタンク、ボーナス、そして既にこの時点からアンネ・マリー・ランドベルク社から少しずつ重要な国際的取引を受けていた。25カ国以上の無数のプロジェクト向けに供給していた。
事故は恐れるに足りず
1981年11月24日、11月の嵐が獲物を求めて襲ってきた。ただ1度だけだがヒナーループの"大げさに騒がれた"55kW住民共有風車が壊れた。風車が立っていた急峻な坂の跡に一本の翼があった。原因はヒュッター方式のフランジを巻いているグラスファイバー糸の疲労であった。リソー研究所の冶金部門の専門家がこの問題に取り組んだ。彼はこの構造の翼は、全て同じような事故を引き起こすだろうと予言した。この見解は週刊誌に派手な話題を提供した。
リソー研究所冶金部門との共同研究で、ヒュッター式フランジでない欠陥のない方式が新しく開発されたが、不幸なことにその生産コストは以前のタイプより10-15%高かった。ボーナス社とオランダの会社だけが、この改良された翼を使った。というわけでカルフォルニアの風車ブームで輸出された風車翼の全ては"古い"ヒュッター方式翼を少し改良したものであった。幸いリソー研究所の"審判"がいささかオーバーであっただけで、翼の付け根の状態を調べる測定器メーカーを喜ばせただけであった。ヒュッター方式翼の付け根は微妙な所があり、定期的にチェックを要するのだが今まで古い翼で損傷したのは5%以下であり、かなりの部分は間もなく20歳の誕生日を迎えることが出来るのだ。そしてもっと大きく効率のよい翼へと移行した。
カルフォルニア風車ラッシュの顛末
ライセンス生産を始めた最初の年は販売量は落ち込んだが、ちょうどよい時期にカルフォルニアの"風車発電ラッシュ"が始まった。オルタネギー社はアメリカに2つの会社をつくった。デンマーク国内では4つの下請け会社があった。この好調な時期のライセンス料で私はスパーカーに翼試験施設をつくった。1984年、私は4本の翼の試験ができる台をつくった。86年8月にエンジニアと技師を雇ってスパーカーセンターを開設した。
開設して3ヶ月後にカルフォルニア・ラッシュが突然終わった。アメリカ政府は風車発電に投資することによる税制優遇を廃止したので、投資家は風車発電に投資することを止めたのだ。オルタネギー社は毎年、風車メーカーのオプションに対応するため余分のストックをつくっている。飛ぶように売れたその最後の年にもそうしていた。1986年の秋、3000万クローネ分以上の翼のストックを抱えてしまった。カルフォルニアの税制優遇時代は去り、アメリカの開発業者はデンマーク風車を買わなくなった。オルタネギー社は倒産した。私にとっては130万クローネという今まで見たことのない額となった。当然、何割かのデンマーク風車メーカーが倒産した。
リソー研究所が引き継ぐ
その翌年から私は一人でセンターで働いた。オルタナティヴ・エネルギーの運営グループと環境省はそこの心暖かな友人のおかげで、当センターに対して翼試験業務と最小限の利潤を保証してくれた。4年間の不況の時代の後1990年、スパーカーのセンターはリソー研究所が測定装置類を買い入れ、建物は私から借用するというかたちになった。私はそこの常勤の所長となった。デンマーク風車発電協会(DV、個人風車発電の所有者の組合)との2年間の話し合いの後、会長のフレミング・トレナスとアスビヨン・ビエールから強力な援助があった。リソー研究所風車発電部門部長エリック・ルントタングは当初から共同研究に積極的な人であった。
1996年私はついに建物の所有権をリソー研究所に売った。その時期に設備と建物の精力的な拡張への投資が行われたのである。