第07回 風車発電産業の発展 (2)
ビルガー・マッドセン
1981年の嵐
風車発電が産業として成立する以前から、風車には空気(スポイラー)ブレーキが必要だと言う規定は事実上存在していた。リセアー風車の暴走事故などを教訓として、DVとOVEのグループが自主的な活動として、全ての風車に空気ブレーキを備えることを勧告していた。エケアー風力エネルギー社は外付けの補強材なしのグラスファイバー翼に内装する方式をとっていて、ヴェスタス、ノルドタンク、ダンレーンなどの主要なメーカーに販路を確保していた。風車発電の出力が45-55kw、風車径を15-16メートルに規模を大きくしてからは、企業努力の方向が、風車をスケールアップするより安全運転とコスト低減に明確に向けられた。風車発電のスケールアップの最初のラッシュが来たのは、アメリカの風車ラッシュが一巡りした数年後であった。
風車発電を安全運転することは大変大きい技術的な挑戦であった。普段は分からないけれど、嵐など気象の変化でその風車の白黒がはっきりする。特に多くの者の記憶に残る出来事は、1981年11月の嵐であった。後に100年来の嵐であったと言われている。ヴェストキーステン地方では、瞬間風速が35-40メートルを計測した。ヴェスタス社にいた私は次のように記憶している。風は週末にかけて強くなり、日曜日から月曜日にかけ台風のようになった。月曜日の朝6時30分、電話が入り、ヒナループの55kw風車が翼の1本が吹き飛んで停止したとの連絡があった。技術者のヨーンと私は被害調査のためヒナループにかけつけた。翼は付け根から引き裂かれ、風車から20-30メートル離れた所に投げ飛ばされていた。
災いのもたらした結論として、リソー研究所の材料部門の専門家がエケアー翼を詳細に調査することになった。エケアー翼の製作者のエリック・グローヴは、それまで身近に得られる知識や情報のみで翼を設計製作していたが、翼の改良にあたって、より広く多くの人達と共同で行うことになった。
ヴェスタス社にとっては、それまでの55kw風車発電16台の翼、全ての交換を意味した。そのため16万クローネ要したが、いつも赤字経営の会社としては大変こたえた。ヴェスタスの創始者のピーター・ハンセンは言った。今までAと言っていたのに、今度はBと言わねばならなくなった。だが、ヴェスタス社は翼の何本かで顧客を失うようなことがあってはならない。失敗から学ぶことこそ肝心である、と。災害の数日後、ヴェスタス社は、風車発電の全ての設計製作を自社で一貫して行うとの方針を固めた。そしてそれを成し遂げるまでに約3年要した。私たちにとって、グラスファイバー でものをつくる仕事は全く始めてのことであった。 けれども振り返って見れば、この嵐で被った災害と、引き続き発生した1982年1月の同様な嵐は、風車発電産業の発展にためになったと思う。これらの事件は風車発電の弱点を露わにしてくれた。
個々の風車発電業者の風車にも被害はあいついだ。S.Jウィンドパワー社のウィンドローズ風車は、その頃既に200台ほど立てられていたが、大きな被害を受けた。全体の約25%の風車が全壊したのである。そのあとの1年目は、嵐が発生したという知らせを受けると、サーヴィスチームと建設にたずさわったメンバーの多くは、夜もろくに眠れなかった。だが、暴走状態になると翼の先端がねじれる仕掛けの風車翼が、ちゃんと作動して最悪の事態が避けられる、ということが次第に判ってきた。アメリカ市場が始まる前に、55kw風車のベーシックなコンセプトが十分にテストされたということは、全ての業者にとって有り難いことであった。さもなければ、今日のデンマークの風車発電産業の隆盛はおぼつかなかったであろう。
アメリカへの視察旅行――カルフォルニア1982年
FDVはコンサルタントのオーゲ・ホイバックと連絡をとった。彼はアメリカに風車発電を売るとしたら、特にカルフォルニアに絞って可能性を追求するのがよいと考えていた。ジョージ・ブラウン知事の太陽エネルギーと風車発電に関する進歩的なエネルギー政策のニュースは、瞬く間に太平洋を超えて飛び込んできた。だが、風車発電を建てる(買う)のは誰か、入札はどのようにして行われるのか、などの疑問点は少なからずあった。FDVはそうした事に関してオーゲ・ホイバックと話し合いをした。全員が乗り気で、それに賭けようということになった。同時に私たちは、輸出産業を促進する技術審議委員会へ陳情書を共同で提出した。
計画は進み、オーゲ・ホイバックに82年7月にアメリカ視察に行ってもらい、市場の確認、建設主体はどこか、輸出の可能性の概略などを調査してもらうことなった。その報告は1982年8月末までになされることになった。約23万クローネの補助金が私たちのプロジェクトと、オーゲ・ホイバックの旅費のため獲得できた。
オーゲ・ホイバックの帰国後、プロジェクトをどのように進めるかという会議が開かれた。会議は8月中旬に開かれ、それに合わせて最終報告書が作成された。大きな可能性があることは明らかであった。報告書では市場としての規模ははっきりしないが、政治的な枠組みはしっかりしとなされていて、サンフランシスコのアルモント・パスとロサンジェルス北方のタハチャピ山という主要な設置地域において、国営事業と同じく私営事業も可能であることが確認できた。
その会議からの帰途には全員がアメリカ市場に目が向いていた。それから事は迅速に進んだ。ヴェスタス、ダンレーン、ノルドタンクは、それぞれ9月に1週間カルフォルニアを訪れた。私たちは2-3週間カルフォルニアをまわり、開発業者や州政府と話し合いを持った。そのとき私たちヴェスタス社は、たしか55kW風車発電を1982年に40台販売し、翌年に100台から400台の風車発電をなるべく早く出荷できないか、と尋ねられと思う。目のくらむような話であった。私たちがデンマークを出発する前に、せめて2台の風車発電が売れれば旅費が出るのだが、と話し合っていたのを想い出す。
タハチャピ(スケーンくらいの町)のカフェではダンレーンとノルドタンクの"同僚"とぱったり顔を合わせた。私たち共通のコンサルタントであるホイバックもダンレーンのためのセールスサポーターとして居合わせていた。オーゲ・ホイバック自身は後に"ローランド風車発電計画"の開発業者となった。 大体においてデベロッパー巡りの旅行を通して競争相手の誰かとはち合わせになるのはしょっちゅうの事であった。アメリカの競争相手達の風車は概して私たちの風車のような経験も少ないし、発電出力も規模も小さいように思えた。私たちデンマークの風車はおしなべて50kwで1.5万時間(2.5年)の運転実績があるのに対して、アメリカの製造業者はたった1500時間しかないのを売ろうとしていた。
約3週間の滞在のうちに私たちヴェスタス社はそれぞれ3つのデベロッパーに即納として6台の風車の注文を取り、翌年の1983年に確実に納品できる台数として150台の納品契約をした。 私たちだけでなく訪米した全てのメーカーは注文を獲得していた。9月と10月にアメリカのデベロッパーの代表がデンマークに来てこちらの納入業者と最終的な合意をした。
新ゴールドラッシュ
その年風車発電産業は爆発的に成長し、数多くの業者がカルフォルニアのゴールドラッシュに参入した。経済と言う点のみに関しては全く恵まれた時代であった。全くの売り手市場であった。標準的な55kw風車を私たちは5万ドルで売った。その頃1ドルは10から12クローネであった。同様な風車が国内では35万クローネくらいであった。アメリカへの輸出は1985年が頂点で約3万5千台総計28万8千kwであった。
風車メーカーは可能な限りの手段で生産を拡大した。かくしてミコン社のあるラナース地域で農家の空き屋敷という空き屋敷でミコン風車製造に使われていない空き屋敷はないとまで伝えられた。エケアー風車翼製造社はオルタネギー社に替わり翼の量産を開始した。オルタネギー社はムレルプのレジャーボートの造船所であったが、西ユトランド地域だけでなく周辺の小規模な造船所を下請けにして非常に短期間にグラスファイバー翼の強力な生産者となった。同じくLMグラスファイバー社も元々は造船所であったがオルタネギー社より慎重ながら翼の生産を始めた。
業界にとってはてんやわんやの2ヶ月間であった。9月から新年にかけて25から30台の風車がカルフォルニアに船積みされた。税制上、風車は12月31日夜12時までに系統連携されなければならず、そのためには11月末までに出荷しなければならなかった。1983年度は総数350台、20万kwの風車が輸出された。たちまちのうちにその次の年の注文控え帳も一杯になった。顧客はカルフォルニア州の私営のデベロッパーやゾンドシステム、オーク・クリーク、その他諸々であった。
1984年にはエネルギー大臣クヌードエンゴールによるアメリカ輸出に対する強力な後押しがあった。彼はロサンジェルスで開かれた会議に参加した後、タハチャピのウィンドパークを訪問、500台目のゾンド風車をオープンした。
ヴェスタス、ノルドタンク、ミコンは小企業から大企業に成長した。ヴィボーのDWT社はそんなに順調ではなかった。初期にはより大型の風車に対する要望は強くなかった。風車の立地場所は十分にあったので、皆、十分に実証された風車を求めたからである。そこで来るべき400kwとそれ以上の規模の風車を供給するのはDWTがSEASとエネルギー省と協力して進めるということになった。その後、最初の750kw風車がマスネド島に5台建設された。だがそれらはおしなべて惨たんたる末路となった。
大変有利なタックス・クレジット制は1986年以降はほとんどゼロになる。税制優遇制度廃止後の状況はkwh当たりのコストを現在の半分にすることを要求される。それ故、風車発電の将来はスケールアップと効率向上だといわれた。その頃の風車発電産業はデンマークとアメリカ以外に市場は持たず大量生産の能力もなかった。そのような短期間に効率の良い風車発電をアメリカ向けに開発することは無理であった。すべての風車発電産業は破産必須であった。それ故風車発電市場の状況として風車発電は補助金なしでも経済的に成り立たねばならなかった。そして一年一年気を緩めずにやって行く中で大きな展開が得られたのであった。約50%の税制優遇がなくなるということは2台の風車を1986年以前の1台の価格で売らねばならないということである。より低い価格でより大型で効率的な風車にしなければならない。
風車の売り上げはほとんどストップしたがそうした厳しい状況とは無関係に私たちの創造力はふくらんだ。かねて造船、ホテル業などの個人投資事業を行っていたデンマークの協同組合が今やアメリカでのデンマークの小口投資家をオーナーとした風車建設に向けた投資事業を始めた。彼らはアメリカでの売り上げがドラスティックに落ち込んでいたにもかかわらず、後期の市場において少なからずの貢献があった。 同じ頃、全ての風車メーカーは彼らの風車を150kwから250kwへスケールアップした。
カルフォルニアにおける5年間の急成長とその後の全面的な停止は業界に深刻な経済的後遺症をもたらした。大方の企業は運営資金の欠乏が生じた。需要に見合うだけの支出に抑えることが出来なかったからである。カルフォルニアの夢にチャレンジしたあらゆる企業は財政的な再建を迫られ、ほとんどのケースは倒産であった。生き残ったのはヴェスタス、ノルドタンク、ミコンその他の小企業であった。唯一ボーナス社だけは独力で生き残った。
私有風車普及プロジェクトの停止
非常な速さで成長した風車発電産業はもはや若い産業ではなくなり、1986年からデンマーク市場ではラディカルな状況の変換が生じた。 当時のエネルギー大臣であったクヌード・エンゴールは社民党と急進派との私的な合意として個人による風車発電の無制限な建設を制限し、同時に電力会社が大型風車に取り組む義務を負わせた。この変換は初めての私営ウィンドパーク開発への電力会社の挑戦でもあった。電力会社との最初の取り決めは10万kwの風車発電建設であった。1990年までに10万kwの風車発電をつくらねばならないと言う約束である。この時点では電力会社はエネルギー大臣と共同でニベ風車とティエルボー風車の研究開発、それに加えてDWTのいわゆるウィンドデーン30に少しばかり参加していた程度であった。この話し合いで電力会社が獲得したものは個人建設の風車は自己消費分に限るとし、所有者が住んでいる所でないとつくれないと言うものだった。風車発電の発電量は所有者自身の電力消費量とマッチしなければならないし、風車の立てられる所から10km以内に住んでいないといけない。電力会社に対してもっと風車発電に目を向けさせるためには、そうしたことが政治的に必要だと人々は思っていた。
風車業界でも妥当なものとして受け止めたが、旧い制度から新しい制度への行政の変換政策はあまりにも酷なものであった。いわば、「乞食に施しをするな」という態度であった。プロジェクトの多くは2年くらいの準備期間が必要であるということは常識である。多くの可能性が挫折を余儀なくされた。例えばテンピベ風車発電組合は400人で75kw風車を30台所有するというプロジェクトであったが、自己消費規定と居住規定に触れるということで補助金を削減された。つまり、当時25%の補助金が出るはずであったが約17%に減額されたのであった。テンピベプロジェクトはそれにも係わらず成し遂げられたプロジェクトの一つで、既に12年間電気を産みだし続けている。
ヴェスタス社にとって新合意はアメリカ市場の完全ストップに加えて4000万クローネ以上の注文の減少を意味した。エネルギー大臣クヌード・エンゴールは報道発表において電力会社が10万kw合意に基づいて 1986年までに電力会社が建設した5万kwの風車のほぼ倍の量を5年以内につくるというものであると強調した。 わずか5万kwの達成までに7年かかっている。
今から振り返れば、電力会社が10万kwを達成したのはほぼ8年かかったのに比べ、私有風車の分野では今までよりさらに厳しい規制になったのに係わらず、同じ時期で25万キロワットを達成したということは肝に銘じておいたほうがよいだろう。私有制のウィンドファームの建設を止めるのは良いのだが、電力会社が風車建設を延ばし守らなかったことは良くないという考えもあるかもしれない。1990年、電力会社がさらに10万kwの風車を追加して建設する合意がなされた。それはイエンス・ビルグラフ・ニールセンがエネルギー大臣だった頃のエルサム電力会社との政治的かけひきでもあった。
歴史というのは事実の証人である。すなわち、電力会社と言うものはなにがしかの石炭火力新規建設と引き換えなしに、個人風車による売電に対する制限なしに、なにがしかの風車をつくるということはなかったという事実の。
90年代半ばまで風車発電は輸出と雇用を促進するものとして誰しもが見ていたが、われらが電力会社側からすれば全くダメで不経済なものとされていた。今日、「エネルギー21」と政治的に決まった炭酸ガス排出制限により、新たな電力設備は風車発電とバイオマス燃料に転換した大型発電所と天然ガスかバイオマス燃料による分散型発電所に限られると言うことは明白である。エルサム電力会社自身もオルボーとスケアベックにある石炭火力で電力供給不足に至ることはないとしている。
風車産業の再建とその教訓
風車発電産業は新たな資本が投入されて再建された。ヴェスタスはFIHと3つの地方企業と、ミコンはIbアンドレアセンと、ノルドタンクはより多くの地方の投資家と、それぞれ再編された。ウィンドマチックはアメリカ市場に乗り損なったDWTを買収した。非常に困難ながらも、風車発電産業はより大型でよりスリムな風車をつくってコストを下げる、という挑戦に再度挑まざるを得なかった。それは200kwから300kw風車が市場に出る頃であった。そして同じく、1990年代にむけて国内市場はかなり成長し、最高8.1万kwの売り上げがあった時期もあった。
ヴェスタス社が破産したとき、もしカルフォルニアの後遺症が"ゴミ箱に捨てられる程"軽いものだったなら、会社の周辺の町には車庫のある家に住める人がもっとたくさんできただろうけれど、と労働者が嘆いたと言う。財界人の多くはその急激な成長と凋落を指摘し、デンマーク風車発電産業はアメリカ市場依存から脱却独立すべきであると説いた。まさしくその通りで、風車発電産業は状況に対応できるために必要な経営的、財政的能力を欠いていたということであった。"世界に冠たるデンマーク風車発電産業"などと私たちが言うとき、それはカルフォルニアの1982年から88年の時期を経験したものであることを十分にかみしめ考慮する必要がある。
補助金が打ち切られる
1988年から89年にかけて風車発電産業界にとっても社会にとっても、風車発電は未来のエネルギー源であり、私たちの景観であり持続的な存在としてそれを受け入れられるようになった。風車発電産業にとって1889年には今までの状況を変える2つの重要な変更点があった。5月には個人出資による協同風車プロジェクトには補助金が出ないことになった。というわけで"アメリカ後の市場"は消え失せた。同年の8月、風車発電建設補助金はさらに遠のいた。補助金額は10%に切り下げられたが、風車発電産業界がパニックに陥ることはなかった。いずれにせよ10%以上でない補助金はない方がましだというのが大方の見方であった。そのような補助金というものは常に年度末の駆け込みによる一時的な需要の喚起と停止の繰り返し効果しかない。それに比べて協同風車所有法の改変は、特にアメリカ向けの将来的な輸出に対して不安材料となった。
エネルギー大臣ビルグラーフ・ニールセンの頃からから2人の前エネルギー大臣スヴェン・エリック・ホヴマンとポール・ニールセンに至るまでの数多くの政治家達と論議がなされ、その成果として外国における風車プロジェクトに対する長期ローンの保証を担う会社としての風車保証会社の設立がなされた。この会社の構成条件として出資金の半分は風車発電産業が担う形であった。それは時間と努力を要することであった。再建したばかりの業界には多くの余裕はなかったからだ。私の記憶するところではまず、風車発電製造組合の仲間から計1000万クローネ集める事から始めたと思う。幸い予想以上に資金は集まり2000万クローネになった。血のにじむ思いで会社は生み出された。会社の強みは自己資本が400万クローネで国の保証額が7500万クローネあることであった。そのような会社を必要とする状況はアメリカで生じたので私たちが期待した程度以上に会社が利用されることはなかった。 しかしながら風車発電保証会社は単に保証という枠を超えより広い機能と意味を持つようになった。ウィンドパークのローンディーラーにとってデンマーク国家保証会社との関わりを持つことによって、より有利な他のローンや保証を得られることがあるからであった。
自治体による風車開発構想
80年代末、ある有力な新聞が自治体による風車発電開発構想を報じた。それまで殆どの自治体は新たな風車発電開発プロジェクトを殆どストップしていた。風車産業界にとって仕事が次の年まであるかないかという瀬戸際まで来ていた。
国の風車発電開発委員会は環境大臣に対して、将来の風車発電開発を如何に進めるべきかという勧告をしなければならないことになった。それはプロジェクト運営委員のインガー・ヴォバー事務局長の下でなされ、長期にわたる忍耐を要する作業となった。電力会社、風車発電オーナー、風車発電所有者協会、風車発電産業と風車発電産業組合、リソー風車発電試験所、OVE、二人の大臣の直属役人、自治体と郡部の役人など関連する組織が召集された。
指定区域をより広くして分散的に風車建設する方案と、特定の指定地域でのより多数の集合的風車ないしウィンドパークを建設する方案との二つの路線の争いとなった。電力会社と森林保護組合は後者の主唱者であり、前者の利害組織であった。解決の途は二つの路線の歩み寄りで得られた。集合風車とウィンドパークの建設は最大限に優先するということになった。
この長期にわたる委員会の論議が続いている期間中、新たな風車建設の途は開かれなかった。委員会の論議が続いていることがその言い訳にも使われたのである。まことにやるかたない思いであった。90年には8.1万kwあった国内市場が93年には3万kwに落ちた。再び輸出は極めて低調になった。
大臣が委員会の勧告を公表して間もなく、全国の自治体に対して独自のウィンドパーク開発構想を2年以内に作成するよう求める布告が出された。 何とかひねり出された開発構想により、その後1、2年の内に国中をカバーする風車設置プランがつくられるに至ったことはまことに僥倖の至りであった。
これは私の見解であるが、このしばしの停滞の時期は、将来の発展が順調に進むためにはかえって良かったのではないかと思っている。1996年以後、登録された型式の風車全てを合わせた風車発電生産が、年間20万kwに至るであろうということはその頃知る由もなかった。1989年から95年にかけて技術面での著しい進歩があった。風車発電出力の平均規模は150kwから500kwになり、風車発電による実質的な発電コストはかなり下がった。とりわけ、ドイツへの輸出が伸び、風車発電産業は大きくそして成熟したものとなった。同様に経営基盤も強化された。
1979年からの風車発電の発展を振り返れば、しばしば利害の絡みがうまくいかなかったり、その反対であったりして発展が阻害されたこともあったにせよ、風車産業はその良い時期に特に恵まれた政治的状況にあった。新しい構想が提起されるたびに数多くの"雑音"が入り、それに関する新法案がすんなりと多数決で通過すると言うわけではないが、それは長い眼で見れば健全であり悪いことではないと思う。
【訳注:居住規定と自己消費規定】
風車発電の初期の70年代には、同じ電力会社の配電地域内であればどれだけ大きい風車でも立てられた。唯一の条件として、電気料金管理のためということもあり、全てのメンバーは風車から3km以内に居住しなければならなかった。風車で何らかの不便を被る人は、同時に風車で利益を得る者でなければならない、という理念に基づいたものである。裕福な町の人が風車の存在に煩わされることなく、安い電気だけを得るということは許されなかった。これは良きにせよ悪しきにせよ、それらを分かち合う人々の暮らす中で事業を行う、という協同組合運動の精神からきている。
1980年代半ば、風車オーナー組合は同じ行政区の10km以内に居住しなければならないとなった。(同じ電力会社の配電地域に行政区が数区から十数区存在している)加えて自己消費規定が定められた。例えば風況の良い所の150kw風車は年間平均約35万kwh発電する。1000kwh/年を1シェアーとすれば350シェアーである。風車オーナー組合員は最低で6シェアー、6000kwh/年分のシェアーは持てるが、最大でも自己消費量分プラス35%分のシェアーしか持てないことになった。仮に組合員が最低の6シェアーづつ持ったとすれば一台の150kw風車は約60世帯で共有しなければならないということになる。
裕福な市民が大型の風車発電を立てて私的発電業者になり、自分たちの独占的利益が目減りするのを恐れた電力会社の圧力によるわけだが、一面、持てるものと持たざる者の格差をなるべく少なくするという、デンマーク社会の根幹となっている草の根民主主義の理念に沿っているともいえる。
1992年、居住規定は緩和されて、風車オーナー組合員は同じ行政区ないし隣接する行政区に居住していれば良いことになった。それによって3-5区の行政区から組合員を集める事が可能になった。同じく自己消費規定も緩和され、最低で9000kwh/年分のシェアー、最大で自己消費量プラス50%分のシェアーが持てることになった。
1996年、組合員は全て3万kwh分のシェアーが持て、風車が存在する行政区に居住していなくても、そこに勤めているか、家か農園を持っていれば良いということになった。