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第02回 選民

福岡ドーム球場近くのヨカトピア道を西に向かう。片道二車線の広い道路の両側には、気持のいい歩道が沿っている。行き交う人はけっして少なくないが、それがまばらと思えるほどに広い。曳いている荷車が歩行者の邪魔にはならないと思うだけで、気持にゆとりが出てくる。荷車の横幅は七〇センチ前後だから、人の肩幅をいくぶん広くした程度である。それだけならば、さして気を遣わないのだが、一・八メートルの長さが、混んだ道では人の流れを割いて進むことになる。

荷車を後ろ手に曳いて進む。横木を握る掌に路面の凸凹が直接伝わってくるのだが、いつになく柔らかい感触である。車輪が立てる摩擦音も静かだ。明るく抜けた昼下がりの空に球場の丸い屋根が右手の方からせり出している。まばらな建物の間からは玄界灘の碧い海原も眼に入ってくる。埋め立て地特有のすけすけの風景がわたしの気持をいっそう弾ませてくれた。

ほどなくして交差点にさしかかり、わたしは赤信号に足を止めた。車道を挟んだ向かい側の歩道にも人が立ち止まっている。初めは三、四人であったものが、だんだん膨れあがり、そこだけが密な塊となっていった。やがて塊は盛り上がり、わたしの行く手を阻むように、横一列になってこちらに迫ってくるのだった。信号が赤から青に変わったことを知り、わたしもゆっくりと荷車を発進させたが、すでに気持は縮こまっていた。三つの段ボール箱に、鍋釜を初めとして、衣類や竹細工道具を収納してあるから、外からは何も見えないはずなのに、荷の中身を透視されそうで不安になる。柿渋色をしたゴワゴワの防水加工の外套を人がどう見るのか、そんなことまで気になりだした。

高校生らしき若者が自転車で素早くすれ違って走り去る。その後ろから厚手のオーバーコートに身を包んだ五〇格好の男が来た。仕立てのいいコートの襟を立てて、顎から下を埋めている。両の手をポケットに差して上目遣いの姿勢で歩いている。その隣りでは中年の女が自転車を押して歩いていた。ハンドルの前に据えられている荷カゴには手提げカバンが無造作に放りこまれている。

何歩も歩き出さない内に、ふたりの視線がわたしに張りついた。得体の知れない異物を把握しかねている眼だ。攻撃をしかけてくる眼ではないが、迎え入れる眼でもない。あいさつを交わせるような雰囲気ではない。わたしはその視線を跳ね返すわけでもなく、どこに目線を向けていいか分からない。もう、何度もこんな場面に出遭っているはずなのに、少しも慣れない。祖母が幼いわたしに、「他人様をジッと見るんじゃないよ」と、諭していたのを思い出す。

わたしは足元に目線を落とした。そうすれば、相手がこちらの全体像を心ゆくまで観察できるだろう。次には、意志を感じさせない目線をあらぬ方向に放てば、相手は「隙あり」と読んで、もっと近くまで踏みこんでくるだろう。「だから何なんだ」と、無言で反発する。ふたりはすれ違う直前までわたしから眼を離さなかった。

ヨカトピア道を南に折れて西新(にしじん)の街に出た。街には東西に貫く国道が走っている。東は市内中心部を通って北九州へ向かい、西は佐賀県の唐津に抜ける。車の流れが激しい。その国道に平行して、南側には旧道が走っているが、こちらは幅員は一〇メートルと狭い。どこから湧いてくるのか、人で溢れている。道の両側には間口の狭い店がぎっしりと詰まっている。歩行者天国になっている時間帯なのか、車は一台も見当たらない。道の真ん中にはいくつものリヤカーが行儀良く並んでいて、荷台に野菜や果物を置いている。段ボールの切れ端にマジックインキで、「志賀島野菜」と書かれてあった。

たこ焼き屋の呼び込みに女子高校生の群れが応じていた。若鮎たちのはち切れるようなはしゃぎ声も通りのざわめきにもみ消されてしまう。自転車を押す買い物姿の女性が先に進みかねて、立ち止まっている。

荷車は何度も立ち止まりながら人の中を進んだ。二〇〇メートルほど西に行くと、屋台の列は切れ、人の流れもいくぶん少なくなった。向こうから背の高い男が歩いて来るのが目に入った。その左脇には小柄な女性が寄りそうようにして付いている。男は両腕を腹のあたりで組み、肱を横に張り、幅をとりながら歩いている。

一〇メートルほど先まで近づいてきたときに初めて気がついたが、男は細身で、若くもあった。張り出した両腕には傘が四、五本引っかけてある。透明なビニール製の“使い捨て傘”であった。腕がハンガー掛けの役を果たしている。几帳面に水平を保っている腕が、「まだ何本でも掛けられるよ」と、宣言しているようで、おかしかった。全身をさらけ出したような歩き方に、わたしの目は吸い寄せられていた。足元のスニーカーにも注意がいく。薄汚れていて、ちょっと目にはグレーに写ったが、元々は純白であったかもしれない。目線を上にずらし、表情をうかがおうとするが、はっきりしない。ほほえんでいるようでもあったが、眼孔は窪み、瞼は閉じられているようにも採れた。わたしは、目線のやり場にとまどうどころか、お婆さんの説諭も忘れていた。

脇の女の髪は白く、束ねもせずに長く垂らしている。歩き方は若々しかった。両手に提げたビニール袋は大きく膨れていた。中身が何なのか、めいっぱい入れてあるようだ。この袋もスニーカー同様に薄汚れていた。周囲の風景は曇りガラス越しの不透明さであったが、ふたりには明るいスポットライトが浴びせられているようであった。わたしは、後ろ手で荷車を曳く姿のまま、その場に立ち止まってしまった。後ろから来る人が、コツンと当たったようだ。「邪魔やなあ」と、怒気を含んだ声が聞こえてきたが、さして気にならなかった。

二メートルほどの距離に近づいたときに、わたしは小さく笑顔を作って、「こんちわあーッ」と、語尾を伸ばして声を掛けた。久しぶりに喉を滑らかな息が通り抜けた。女の方も間をおかずに、「こんちわあ」と返してきた。男は柔らかい表情はそのままに、顔を真っ直ぐに立てて無言ですれ違った。

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