第03回 地もどり
五十格好のその女は、白いビニール袋を足元に置いて、両手を大きく広げ、あたりの空気を抱きこむ仕草をした。
「懐かしいわねェ、この風景」
歩いて七、八分のJRの下総中山駅近くに最近スーパーができた。女のビニール袋はその新しいスーパーのもので、夕飯の材料を求めての帰りなのか、長ネギの束が袋からはみ出している。
歩道に背を向け、柱の陰に隠れるようにして、高架下のコンクリートのタタキに座っていたわたしは、女の声にハッとした。あぐらをかいた姿勢のまま、竹割り包丁を動かす手は休めずに、声の主を耳で探った。
タタキの南側には総武線の高架に沿って片道一車線の車道が東西に走っている。歩道もあるが、人通りは少ない。学校の行き帰りの子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくるくらいで、一日中人の気配が薄い。わたしの背後十メートルほどのところに、二本の針金が五十センチの間隔を取って平行に張られているが、歩道から高架下に入ってくるつもりならば誰でもわけなく入ってこれる。
わたしが上体をねじって通りに目をやると、白い歯を見せて立っている大柄な女と視線が鉢合った。わたしは照れて視線をずらした。
「その竹でカゴ編むんですか?」
わたしはこっくりうなずいてから、体のねじれをもどしてふたたび竹を割りはじめた。女が追いすがるようにして甲高い声を出した。
「わたしはねえ、四国の田舎の出でね、子どものころ、学校の帰りには、家の近くにあった籠屋さんに入り浸ってて……飽きないのよね、見てて……頑張ってね」
女は腰をかがめて足元の袋を持ち揚げると早足に歩き出した。道を少し先へ進むと、高架下を横切る溝が流れている。今は生活排水が流れ込んでいて、ドブと化しているが、ひと昔まえまでは農業用水だったのかもしれない。汲み上げポンプのようなものがサビを浮かせて溝脇に立っている。溝に沿って両側の一メートル五十センチだけは土が剥き出しになっていて、針金で囲われていない。JRの手の及ばない地のようだ。獣道のような、人の足で踏み固められた一筋の線が溝沿いにできていて、高架線を潜ることができる。そこを行くと車道とは反対の、北側にある路地へ抜ける。女はその小道に折れて行った。
わたしの耳底に女の張りのある声が残る。いつ滅んでもおかしくない生業(なりわい)への慈しみと受け取ったが、ひとりだけ舞台の上に押し上げられたようで、落ち着かない。座っているだけで汗を掻いた猛暑は過ぎ、吹き抜ける風が心地良い。もう暦では九月が近い。手を休め、一辺が一メートルほどある四角い桁柱に背を預けると、路地に沿ってぎっしり並んでいる二階建ての民家が目に入った。どの屋根の上も透けていて、高架の軒先で遮られた空が横長に延びている。碧味に茜色をたっぷり溶かしていて、明日は晴れるぞ、と告げていた。
わたしが、<そろそろ店じまいするか>と、思ったそのとき、轟音のシャワーを浴びた。電車が頭の上をフルスピードで走り去る。柱に触れた背に、シャツ一枚を通して僅かに振動が伝わってきた。
音に紛れてひとりのメガネ男がわたしの斜め後ろに近づいてきた。広げられているゴザの端に土足のままでしゃがみこむ。
「久しぶりだねえ。一個編んだら一万円になっかい?」
脇に置いてある編みかけの買い物籠にちらっと目をやりながら唐突に声をかけた。数メートル置きに立っている桁柱の、三つ離れた所に寝起きしている〃隣人〃であった。垢焼けと日焼けが重なった顔はてかてかと赤銅色に光っていた。銀色の時計を回した腕首も同じ色をしてる。下半身はズボンに革靴履きのいで立ちで、上は夏向きの薄いブレザーコートを羽織っている。コートの下からのぞいているシャツの襟の汚れを除けば、そこらにいる勤め人と変わらない。わたしが一言も口にしない内に隣人はつんのめるようにしてたたみかける。
「今朝は四時よ、四時。四時に起きて本をやったっけが、二千円にしきゃあなんなかった……」
下を向いて竹を割っていたわたしは、店じまいの機を逸したかと危ぶんだ。
「でもいいってことよな、一杯飲めんだから……」
隣人は江戸弁で自分を慰めてから、大きくため息をする。この前も「一万円か?」と尋ねたことをわたしは思い出していた。その時は別の種類の籠を編んでいた。 風に乗ってアルコール臭い息がわたしの鼻先にとどくと、軽い気持ちで合いの手を入れた。
「二千円じゃあ、たいへんだなあ」
「四時だよ、四時。でもさあ、いいってことよ、一杯飲めんだから。な?」
銀縁メガネの奥でせわしなく瞬きを繰り返す。
「JRの人が何か言ってきちゃあ、いなかったかい?」
隣人は、たいしたことではないんだが、という口調で尋ねた。JRの関係者に追い立てられるのではないかと気を揉んでいるのだが、そのことをわたしに感づかれたくないらしい。
「何とも言っちゃあいないよ、あの張り紙からこっち」
一ヶ月ほど前、まだ暑い盛りだった。隣人が荷物を寄せ固めている柱の目の高さに一枚の紙がいつの間にか張られてあった。それには「囲いの中はJRの土地ですから、置いてある荷物を早く撤去して下さい」と、手書きの墨字でしたためてあった。同じ囲い中なのに、わたしのほうには何の沙汰もなかった。長いままの竹は近くの雑草の中に放り込み、道具類は側溝の上にトタンを被せて置いていた。そこはコンクリートのタタキの北側にわずかに突き出していて、雨が降ると濡れる。見回りの係官は手荷物の置場所の微妙な違いを頭に入れていたのだろうか。
「あの連中は何も言われねえんだからなあ・・・」
うまい処を見つけたものだと、感心したふうで溝脇の段ボール小屋をあごでしゃくった。溝に沿った両脇は囲いの外である。
「無縁仏かあ、はははは」
隣人は並びのよい白い歯を見せて笑った。瞬きの間隔がゆっくりになり、話が元に戻っていく。
「汚れてんのだと、一冊十円にしきゃあ、なんないけんど、今日のは三百円だよ。エロ本の真新しいやつよ。もうけたなあ。珍しいよ、一冊で三百円てのは」
「三百円になればいいさ」
わたしが明るい声で相槌を打つ。
「でもなかなかだよ。デンキもやってんだけど……カセットが五百円で、ウォークマンだと二百円かな。オーディオセットのきれいなのだと五千円になっけど……修理して鳴るようにしてから、どっか外国に売るんだろうよ、知んないけどさあ。でも普通の人が持って行ったっちゃあ、駄目だよ。俺なんかは顔見知りだから、ちゃんと、すぐに買ってくれるけどさあ……京葉道路に原木インターてあるの知ってっかい?……そのすぐ近くにコンテナ置いて商売してる親方が居(い)て……通り過ぎただけでじゃあ分かんないな」
隣人は気持ちが膨らんでいるのか、あっちこっちと話を飛ばして喋り続けた。
「チャリンコで来たのかい?」
「ゴロゴロ曳いて……」
わたしが通いの人であることを隣人は知っているが、宿がどこにあるのかは聞こうとしない。
「でもいいさ、二千円でも一杯飲めんだから……」
隣人は念を押してから立ち上がった。曳いて来た自転車に手をかける。西陽が男の背に注がれ、長い影が棒のように伸びて、わたしの手元にとどいた。
「まだ明るいし、寝るには間があっから友達のところに行ってみっか」
*
わたしは翌朝七時には高架下でゴザを広げた。涼しいうちにやりかけの籠を仕上げてしまおうと思う。八時近くになって、犬の散歩の途中にいつも声をかけていく、四十過ぎの男と挨拶を交わしてからはひたすら籠を編む。複々線の上下線四本の鉄路を引っ切りなしに電車が疾走して行く。雷鳴にも似た轟の中に座っているが、さして耳ざわりとも思わない。
突然音が消えた。こんなことが日に二回か三回ある。特急電車の通過を待って、各駅停車や快速の電車が最寄りの駅で退避しているのだろう。申し合わせたように、車の通りもパタッと止んだ。どこか、離れた所でパン、パンと布団を叩いている音まで聞き分けられた。朝日の中で舞い上がっているであろうほこりまでが新鮮に瞼の裏に浮かぶ。あまりの静けさに時間が遠くにさかのぼっていった。わたしは、ふと、この線路が地上線だったころのことを思い出した。列車に揺られていたのは小学校に入った年の冬休みだった。早くに父親を亡くしたわたしは、房総半島南端の小さな町で祖母と暮らしていたのだが、東京に単身で働きに出ていた母親に会いにひとりで出掛けた。新たに房総西線(現、内房線)に投入された最新型のデゴイチ(D51)機関車に曳かれた列車は、終点の両国駅まで四時間近くかかったが、窓から見える景色に目を丸くし、心細いと思う間もなかった。
千葉を過ぎ、津田沼あたりにさしかかると、車窓の両側は見渡すかぎりが落花生畑であった。収穫した作物が大人の背丈ほどの高さにところどころに積み重ねられているほかは、剥き出しの台地が広がっていた。陽の光りを受けて、一帯が白く反射していた。ときおり強い風が砂塵を巻き上げていて、上空を黄色に染める。日ごろ見慣れている田圃が、県北では一枚もないのが子供心にも不思議であった。
突然、磯臭さが鼻を突き、夢見心地から醒めた。潮騒こそ耳に入ってこないが、高架下が海に近いことを教えていた。
静けさの続く中で、コンクリートを鳴らす乾いた靴音が高い天井に響いた。誰かが囲いの中に足を踏み入れたようだ。音はしだいに近づいてきて、わたしが背にしている柱の陰で止まった。わたしが不安げな目で振り返ると、野球帽を被った背の低い男が立っていた。帽子からはみ出した毛髪が白い。七十近いと思われるその男は、こわおもての表情ではないが、額に皺をきつく溜めた顔でわたしを見下ろした。高架下の住人なのか、通りすがりの人間なのか見分けがつかない。わたしは間が持てずに先に声をかける。
「涼しくなったねえ」
七十男はそれには答えず、
「秋アンが世話になったっけが……」
それだけ言うと、脅えた目付きで自分の背後を振り返る。わたしはドキッとした。夢の続きなのか、と疑う。
「秋アンが事故に遭ったときには葬式まで出してもらったっペ」
わたしは座ったまま顔をしゃくり上げて相手を窺うが、見覚えのない顔だった。突然の昔話に記憶の糸をあわててたぐりよせる。
もう二十五年も前のことになる。わたしが北関東の山里に住んでいたころのことであった。たんぼをはさんだ裏隣りに秋之助という男が住んでいた。四十歳をいくらか越した独り身であった。里に下りてくる前は奥まった山で暮らしていて、三角に張ったテントが寝ぐらであった。
秋アンの仕事は箕直しである。「直し」と周囲から呼ばれているが、実際は箕「作り」のことである。塵取りを巨大にした形の農具である箕は、よくわたしの仕事と混同されるが、使う材料が全く異なる。秋アンは桜の皮や藤蔓の皮を求めて山に入っていくが、雑木林がどんどん杉や桧の山に変わってしまい、思うような太さの桜樹や藤が見つからない。国有林に入ってこっそり調達することもあったが、それもうるさく言われるようになった。プラスチック製の箕が出回るようになってからは、農家からの注文も減り、しかたなく里に下りてきて、賃仕事に通うようになった。
秋アンは里の人とのつきあいができなかった。「箕直し」と、声を掛けられると、苦しそうな表情をして人前から姿を消していた。皆はおもしろおかしく「シラバケの秋アン」と陰で笑い、山の民が里人に「化けた」ことをからかった。
その秋アンがわたしの家にだけはちょくちょく足を運んだ。同じようによそから移ってきた「タビの人」であったから、溶け合うものがあったのだろう。ある日、秋アンが一升ビンを持ってわたしを尋ねて来た。わたしは、土間に切った囲炉裏の前に座って仕事をしていたが、秋アンは火を挟んで向かい合って腰を下ろした。そして、わたしの仕事ぶりを肴に手酌で飲み始めた。わたしは手を休めることなくタガラを編んでいる。釣り鐘を引っ繰り返した形の、この地方独特の背負カゴである。緑も鮮やかな四つ目が斜めに編み上げられて、菱形が連なっていく。
「籠は色気があんなあ、箕はおとなし過ぎるっぺが……」
秋アンがめずらしく白い歯を見せて笑った。しばらくは何も言わずに眺めていたが、そのうち、思いあまった息づかいで、
「俺らあもジモドリしてえよ」
と、つぶやいた。もう笑ってはいなかった。秋アンの重苦しい自答がわたしの胸にとりついた。たまにしか手にしない箕直し道具が、家というにはあまりに簡便な造りの小屋の入り口に乱雑に重ねてあるのをわたしは知っている。山にいたときはああではなかったはずだ、とわたしは堅く信じていた。箕の仕上がりの几帳面さから察して、自分の命の次に大切にして道具を手入れしていたはずだ。
秋アンは独り身の気楽さで、朝から酒ビンを傾けて囲炉裏端に座る日が多くなった。わたしには学校に上がる前の三人の子どもがいたが、騒がしく土間に出入りするのを秋アンは叱ったり、気が向くと、腕をつかまえて膝に引きずり寄せて、荒っぽいかわいがりかたをした。子どもが泣き出すこともあった。そうなるとどうしていいのか分からずに、あやすでもなく、落ち着きなく酒をあおった。融通のきかない秋アンの呼吸が伝わってくると、わたしは愉快になった。わたしの連れ合いが家事の合間に小皿にツマミを作って出すと、
「ありがてえよ、おめえさまもここえ座ってがっしょ。父ちゃんの仕事でも見ねえっちゃ」
と、機嫌がいい。酒が切れると、
「ちょっくら行ってくっから」
と言い置いて、隣村のよろず屋に箕を持ちこんで一升ビンと交換してもどってきた。籠屋見物も飽きると、
「いがっぺよう、そんなに仕事ばっかしねえっちゃ。たまには一杯やれさあ」
と、嫌みの一言を残して、原動機を取りつけた自転車に跨がって立ち去った。何年か前に工事人夫で働いていたときに親方が、
「歩いて通うのも大変だっぺから」
と、くれたものだ。原動機付き自転車に乗る秋アンの上着のポケットにはいつも名刺大の紙が大事そうに入れてあった。お巡りさんに呼び止められたときにはそれを見せるように親方に言い含められていたのだ。字の読めない秋アンはそこに何が書いてあるのか分からない。
行く先は大方は瓜連(うりずら)の友人宅であった。峠を越えて砂利道を小一時間北に走ったところにその友人はいる。
*
ある日の夕方、山里には珍しく、遠くでサイレンが鳴った。いつまで経っても鳴り止まない。どうやら救急車のようだ、そう思ってわたしは不安な顔で庭に出て音のする方を探った。真っ赤なランプを点滅させた救急車が隣村のほうからしだいに近づいて来る。止まったのは秋アンの家からさほど離れていない道脇であった。飛んで行くと、すでに白い布に覆われて、人が担架に寝かされて車の中へ運び込まれるところであった。うす汚れた足首から先が布からはみ出していて、草履が片方の足に引っ掛かっていた。先ほどまで囲炉裏の縁に乗せていた秋アンのものであった。原動機付き自転車ごと側溝に突っ込み、首の骨を折って即死状態らしい、と駆けつけた人達は噂していた。
秋アンの葬儀は二日後に行われた。親戚縁者が探し出せなかったので、村の者たちが手分けして祭壇をつくり、ありあわせの料理を供えて供養した。ひと間だけある畳の間に寝かされた秋アンは北枕をされ、白装束の胸に重ねた両手には包丁を握らされていた。秋アンの古里ではどんな葬式をするのか、誰も知らないから、里のしきたりに乗って何もかも済ませた。包丁で邪神を切り払い、迷わずに成仏するようにとの願いである。
わたしは土葬する前にかぶりをめくって最後のお別れをしたが、外傷のない顔はいつになく穏やかに思えた。口を閉じているが、これで楽になった、と言いたげである。生前ならば、黙りこくっているときは、内に溜めた苛立ちをどうぶちまけてよいのか分からないという顔をしていた。時には掴みどころのない怖さがあった。いま、柩の中に横たわっている秋アンの内側には何もない。そのことがわたしには嬉しかった。
葬儀の二日後に、どこで聞いてきたのか、友人と名乗る男四人が瓜連から線香をあげに秋アンの小屋を尋ねて来て、帰りにねんごろな挨拶をわたしにしていった。わたしは背後に立つ七十男が、もしかしたら、瓜連の友人のひとりではないかと考えた。年齢的にも照合する。
「瓜連のお父さんかな?」
相手は表情を変えないで黙っている。
「あんたは箕直しではなかっぺが、秋アンと同じだっぺ」
北関東の強い訛りもそのままに、自信に満ちた声で言い切った。そう断定されたわたしは不快ではなかったが、戸惑った。酒をだらしなく飲んでいると勘違いされているのだろうか。それを言いにわざわざ自分を探してたずねてきたわけでもあるまい。七十男はわたしの胸の内を見抜いてでもいるかのように、余裕のある顔で言葉をつぐ。
「怒らなくともいがっぺ。あんたが飲んだくれだ、て誰も思っちゃあいねえよ。あんたは俺らがのナガレだっぺから……」
これまでに二回しか会ったことのない人に、血を分けた一族呼ばわりされて驚いた。わたしは思い当たるふしがなにもない。
「私は福井県の敦賀の出ですよ。関東なんか、ましてや瓜連なんて無縁の地だから……」
「若狭は俺らがの先祖さまのおいでなさるところ……」
わたしは男の先祖話からどうしても逃げることができない。知らず知らずの内に話に吸いこまれていった。
「あんたの先祖は若狭の籠作りであったっけが、明治の時代に入って……」
家業が籠屋であると、これまでに誰からも聞いた覚えがない。かといって男がありもしないことを口から出まかせで言っているふうにも取れない。わたしは神妙な顔で話の先を聞こうとした。
「明治になってから若狭を離れ、シラバケして大阪に住むようになったっぺ。そのことは聞いてると思うだべが……」
わたしは目を丸くした。秋アンが聞いたら、苦しげな表情はそのままで、「まあ、聞け」と言ったかも知れない。
文久生まれの曾祖父は明治の時代になってから、屯田兵として北海道に渡ったのは知っているが、その後に一族の者が関西に戻っていたとは初耳であった。祖父も父親も房総の生まれなのにおかしな話だ。わたしは男と話していて気がついたことがひとつあった。戸籍簿になぜだか曾祖父も祖父も名前が載っていないことだ。記帳は父親の代から始まっている。
「若狭には血を分けたクズカミがいるっぺ」
わたしは聞いたこともない人の名前を聞かされて、自分よりもこの男の方が先祖のことをよく知っているのではないかと、薄気味悪くなった。男が何と言おうと父親は戸籍簿に房総生まれと載っている。七十男は落ち着きのない目であたりを見回すが、誰もいないと分かると、わたしにこっそりと教えた。
「生まれも育ちも大阪だっけが、戸籍を作ったのは房総だっぺ。関東のクズカミを頼って作ったっけが、近ごろの話よ。徴兵検査に間に合わす考んげえで……」
半露天の稼業に少しも怪訝な顔をしない男の横顔を見ていて、わたしは、なにもかも見抜かれているようで怖くなった。
「止めてくれんかね、そんな因縁話しみたいなこと」
わたしが力ない声で訴えると、
「また寄っぺ」
男はあっさりと立ち去った。
わたしは焦点のずれた目をしばらく遠くへ向けていた。裏路地で子供が弾んだ声を張り上げていた。犬を相手に遊んでいるらしい。澄んだ声がガランとした高架下の空気をリンリンと鳴らした。わたしは、目と鼻の先に別の世界があると思った。