第04回 オシマバ(2)
バアはトーガを振る手を休めて夢の続きを見ようとするが、万蔵の影は薄くなるばかりである。「どりゃ」と、気持を入れ替えてトーガを振り降ろすと、サクッという切れ味の良い包丁の立てる音がした。
「アヨウ、入(い)ってもいらんとに、切ってまでして……」
想いがわれ知らずにはち切れる。芋はやせ細って実入りが少ないのに、その芋をごていねいにもトーガで切断してしまったと嘆く。
「入ったとの一本でん、拝まんこて、話にならん」
声には怒りすら帯びていて、不手際にひるんでいるふうではなかった。二十メートルも離れていないタタキの上で、聞き耳を立てていたわたしは思わずふきだした。もう二十年以上も前の、ある夏の昼下がりのひとコマが思い出されたからだった。
その日は、ほ(火)めきが激しくて、ルーヒングフェルト張りの屋根の下の住人はコシキ(蒸し器)の中にいるのと変わらなかった。誰もがムシロを小わきに抱え、木陰を求めてうろちょろしていた。バアは家の前のガジュマルの幹に背中をもたせ掛け、目をとろんとさせて足を投げ出していたが、遠くでオチカが叫んでいるのを耳にした。
「オシマ! ワイが(の)牛がイケンタの田んぼで悪さしちょっど!」
「アゲ、アゲ、アゲ」
オシマは、血相を変えて跳ね起きた。バアの飼い牛が、口綱を外して人の田を荒らしていた。ただでさえキツネ目であるのに、さらに目尻を吊り上げる。さわ一大事とばかり、草履をつっかけることも忘れて、曲がりかけた腰をさらに曲げてたんぼに突っこんで行った。ちょうど短距離走の出発でもするときのように、前傾姿勢をとって、牛を追いかける、その姿を思い出してわたしは笑ったのだ。
*
バアはひと通り畑を打ってから平和荘の軒下へ入って腰を下ろした。二、三間離れてカゴを編むわたしを横目でうかがいながら、皺に埋まった顔に手ぬぐいを強く当てた。
「ワや、こげな(こんな)仕事をして、あっちこっちさりく(渡世して歩く)とか?」
「子どもに噛ませんなあ(食べさせなければ)いかんでやあ」
「じゃよ。職人の魂はひとつやっでなあ」
背中を丸めたわたしの姿が、絞め機織りの職人をしていた末息子を思い出させのだろうか。バアには万蔵の下に三人の息子がいたが、皆早死にした。ふたりは戦死、あとのひとりは疱瘡が因で赤子のときに息をひきとった。やっとできた五人目の民雄は、長男の万蔵とは親子ほどの年の差があったが、バアには万蔵の再来に思えたのだ。顔かたちばかりか、親思いの優しさまでが通じていた。
「こい(これ)を、いけんか(どうにか)してくれ」
バアは縁の破れたテゴをわたしにさし出す。何もかも自分ひとりでやってきたが、こればかりはお前に任す、と放り投げるようなもの言いである。「男手(おとこで)が無かで、人さまに迷惑をかけんごとせんな」と、日頃から口にするバアには珍しい。
わたしはテゴをひっくり返して底を確かめると、千切った段ボールが内側から当ててある。そうでもしなければ入れたものは破れ底から落ちてしまう。バアはわたしの目のやりどころをじっと見ていたが、「にいもん(新しいの)を作ってくれ」とは言わなかった。「んーん、こい(これ)なあ?」わたしがどう返答しようかと迷っていると、「オがと(自分の)はこい(これ)しか無かでなあ」と、バアが先回りした。
*
わたしはやりかけのテゴを午前中に仕上げる。昼食を摂ったあとのひと眠りから目を醒ますと、バアのテゴのことが真っ先に頭に上った。「修理せんわけにもいかんし……」平和荘の前のタタキに座ると、ガジュマルの枝葉を透かして陽が漏れてきた。目の前の白い道が眩しい。破れテゴをまじまじと眺める。横に回してある竹ヒゴが分厚過ぎて、縦に走る骨と交差する箇所がところどころで折れている。島のいたるところに自生している琉球寒山竹で編まれているのだが、わたしは唐竹(からたけ)を使って修理したらどうだろうか、〈こん腐っされテゴも、竹が違ごえば、まあ、四、五年は持つやろうで〉と、考えた。唐竹ヤマは島裏のオーブラにある。わたしは、片道小一時間の道を走るようにして往復して唐竹を持ち帰った。
全部の折れを取り換えようと思えば、テゴをおおかた解くことになり、元の姿が消えてしまう。かといって直さないわけにもいかない。わたしはつくづく、新しいテゴを編んだほうが早いし、丈夫なのにと思う。
*
わたしは暗くなってからバアの家を訪ねた。玄関口に片足を入れ、誰もいない座敷に向かって叫ぶ。「居(お)っか? テゴは直しといたで、こけえ(ここへ)置いとくでな!」 わたしがすぐさま立ち去ろうとすると、バアの嗄れ声が奥の方から返ってくる。「ワイはそげん(そんなに)せわしなかとか? 待っちょけ!」
バアの一喝にわたしは釘付けになる。若い時に首根っこを掴まれてからこっち、バアに逆らった記憶がない。わたしが、ヒロカトコロ(広か所)と島の人が言う、陸続きのところから島に移ってきたのは二十をいくつか過ぎたころであるが、島の住人のするように、牛を飼い、ヤギを飼うことから始まった。人からケワケ(飼分け)してもらった子ヤギをまずは庭で飼った。野に放した後も、飼い主が呼べば寄ってくるように仕向けるためである。餌になる葉っぱを毎日採って与えなければならない。手間をかけずにすむ法はないだろうかと思案していると、人が、「ガジュマルの若枝が好物やろう」と、教えてくれた。大風から家を守るために大方の家では屋敷の周囲にガジュマルを植えている。わたしは、バアの家の入り口に立っているガジュマルの大木に目を付けた。高枝を折るわけでもなし、下の方ならかまわないだろうと、手の届く高さで四方に伸びている小枝を切り取って家に持ち帰った。しばらくするとバアが飛んで来て、目尻を吊り上げる。
「ワヤ(おまえは)わらべのしこも(子どもほども)、びんた(頭)が回らんたなあ。台風の時にゃあ、下枝がものを言うたで、そん(その)宝な枝を落とすちゃあ……」
わたしは初めのうちは心臓の鼓動が聞こえるほど怖かったが、そのうち平静に戻った。歯切れの良いバアの一喝を、ここそこのアニさんたちも、すでにオジと言われる年齢の人たちも、一度は浴びたはずだと、想像したからだった。
バアは、昭和二十七年のルース台風のときは、笹茅葺きの屋根のてっぺんを吹き飛ばされたが、ガジュマルの下枝に護られた庭先の野菜は何の被害も受けなかった。「風にも泣き所が有っとなあ」と、漏らしたことばにわたしはグーの音も出なかった。
わたしはそんなことを思い出しながら、足踏みする思いで土間に立っていた。深いガジュマルの葉陰にしみこむような虫の音が耳に入ってくると、時間が止まり、足踏みも停まった。薄暗い室内を見回すと、オモテの間の鴨居の上に黒縁の額に入った写真が何枚か架けてある。どれも男ばかりで、しかも、島では見かけない背広姿である。襟元あたりがぼけて見えるのは、写真屋の機転で、首から下は別の写真を合成したのかもしれない。
わたしには、一枚だけ見覚えのある顔があった。何年か前に死んだ五男の民雄のである。してみると、残りの写真はその兄弟やバアの連れ合いのものであろうか。ナマの海を目がけてハシケ舟を漕ぎ出した万蔵もいるはずだ。
民雄は中学を出てから数年は島にとどまっていたが、結婚して子育てに忙しくなるころに鹿児島に出て、絞め機織りの職人になった。「子どもを高校までは通わさんな」が島を出る動機であった。現金収入のない島では、これまでに何人かが、働きながら自力で鹿児島市内の夜間高校を卒業していた。昼間部の卒業生はいない。
民雄は盆の休みに島へ帰ってくると、何はさておき、海に向かった。魚突きが好きで、島にいるころはわたしをここそこの海に連れ歩いた。「お盆の候に海に入れば、ガワッパに足を取らるっど」と、人に脅されても動じなかった。終日潮に浸かっていても平気であった。弁当を持たないで浜へ降りて行くこともあり、そんな時には、腹が減ると、立ち泳ぎをしながら、突いた魚を生のままおいしそうにかじっていた。バアは、「ぼっけ者が(こわいもの知らずが)!」と、人の手前毒づくが、嬉しそうな顔を隠さなかった。
絞め機は大島紬を織りあげる時の前工程で、根気と力のいる仕事であるが、稼ぎが大きい。島にいてもできる仕事なので、わたしも所帯を構えるようになってから、やってみる気になった。民雄に相談すると、「俺(お)が保証人になってくれるで、紬組合が立てた養成学校に願書を出さんか」 わたしは言われた通りに書類を送ったが、待てども入学の許可が下りない。民雄は心配になり、あちこちに問い合わせたが、要領を得ない。どうも、新しい職人を養成するかどうか迷っているらしい。聞けば、韓国産の紬が大量に輸入され始めて、価格の面で国産品は太刀打ちできないようだ。わたしは絞め機織りを断念して、島に自生する竹を使ってカゴ、ザルを作り、それを鹿児島に移出することを考えつく。
わたしが民雄にこのことを打ち明けると、ひとの良さそうな眼を向けて、「まあ少し待ってみらんか?」と勧めるが、強くは言わなかった。気が急いていたわたしは、人づてに探したカゴやの親方を頼って、熊本の人吉盆地へ修行に出た。入学許可が下りたのはその直後であったが、わたしは後戻りしなかった。親身になって心配してくれた民雄にはすまない気がしたが、先行きのことを考えると、絞め機織りは気乗りがしなくなっていた。そのまま島へは帰らず、内地で十七年を過ごした。民雄がガンで他界したのはその間のことである。
「バア、何もすんな! 行くど!」
わたしはしびれをきらして立ち去ろうとする。その時、仕切りの向こうからバアが首を突き出した。
「ワヤ(おまえは)ビールは飲まんとか?」
「飲むとは飲むばってん……」
「持ってけ(行け)!」
缶ビールを透明な袋に入れてわたしの立っている方に突き出す。わたしはサンダルを脱いで座敷に上がり、勝手の間に入って行った。受け取った袋は冷たかった。袋の下の方に白抜きの字で『OO製パン工場』と書かれてある。菓子パンでも入っていたものと思える。裸のままでは済まないと思って、何か包装する袋を探していたのだった。
「冷蔵庫に入れとったばってん、ぬるうなっちょらせんか?」
わたしはバアのところにも電気冷蔵庫があると知って驚く。十七年という時間が島を大きく変えていた。わたしが島を出るころは、夕方二時間だけ発電所のモーターが回った。冷蔵庫といえば、プロパンガスを燃料に使うガス冷蔵庫が島に四台あっただけである。一台は学校に、三台は比較的金回りの良い家にあった。わたしは島にいるころ、冷えたビールを喉に通したことは一度もなかった。
「民雄が近ごろ送って寄越したとやろう」
あの世からビールの詰まった冷蔵庫が届けられたようもの言いである。わたしは玄関に戻り、サンダルを突っかけた。
「おおきになあ」
礼を言いながら尻下がりに外へ出ようとすると、目ヤニの溜まった目をこすりながらバアの声が後追いする。
「ワイが背を丸うしてテゴ編んどるとを見とれば、いっきい(すぐ)民雄が想わるっとなあ」
*
バアは午睡の後、牛の草切りにハエノハマへ向かった。ガッコウニワからゲーロのアカハゲに通じる一本道を、腰をふたつに折って進む。いつもある背中のものが無いと、忘れ物をしたようで、落ち着かない。草を束ねるための荒縄を腰に巻き、それに造林鎌を差し挟んでいる。左右の足が入れ違うたびに、鎌の柄が尻に当たる。〈腐れテゴでも、テゴはテゴやんに(じゃないか)〉と、ひとりごちた。
アカハゲの切り通しを過ぎると、下り坂になる。ひと呼吸を入れようと、立ち止まって首を立てると、竹薮の上に広がる七島灘の真ん中には、悪石島がいつものように浮かんでいた。手前の海からは鱗のような銀色の小波が照りかえってきて、思わず目を細めた。ボト、ボト、ボトという弱いエンジン音が聞こえてきて、島の誰かがマギリ漁をしているのがわかった。〈このほめきに、サワラが食う(釣れる)とやろうか。〉
バアがさらに道を下っていくと、薄くなった竹薮の透き間からクエンサキの浜が崖下に見えてきた。沖に向かって伸びているサンゴの棚が、ここの一帯だけはひときわ沖に迫り出している。バアは反射的に道の内陸側に目をやる。
「どっか、このにき(近く)やったなあ」
黒目をぎょろつかせて薮の中を探るが、オクイヲの積み石は見当たらない。
「便利な世の中になったもんなあ」
ほんの何年か前までは、道脇に座っていた石だが、車が通う今の道がすこし離れて開かれてからは、誰も石のことを振り返らない。
「オクイヲ様が居(お)ったで、島が崩(く)えんたでなあ」
オシマバアは見えない石に同情する口ぶりである。まだ寺小屋にも通わない幼いころに、ンバア(お婆さん)から聞いた話しが忘れられない。
文化年間(一八〇四年~一八一八年)生まれのンバアがわらべのころ、東へ五浬離れた諏訪之瀬島で大噴火が起きた。山から噴き出す灰がひどくて、一寸先も見えないほどであった。飛んでくる火石で家はことごとく焼かれ、島民は海岸にある岩穴に難を逃れていた。それが何十日も続いた。四百人とも、五百人ともいわれる人が住んでいた大きな島であったが、いよいよ駄目だと判断して、老いも若きも浜へ下り、大騒動して灰に埋まった丸木舟を掻き出す。舳先まで埋まっているから、鍬を振り降ろさないことには無理だった。火石を避けながら近隣の島々へ漕ぎ出した。多くは北隣りの中之島へ向かったが、南の悪石島や、西の平島、それに、口之島へも渡った。焼け石は海を越えて、ンバアの平島にも飛んできて、危うく山火事になるところであった。恐ろしいことは重なるもので、同じころ、シマでは山の神様が大暴れしていた。そのことを文化年間生まれのンバアが、幼いシマに語って聞かすのだった。
*
……ながし(梅雨)がひどうして、何日もお天道様を見らんたなあ。かねて(いつも)の年ならば、クチナシの花も散って、いよいよ粟が実をつけるころやが、そん年は、花の散る気配もなかふうで、いっちょん(いっこうに)穂が育たん。八幡サマのコーラ(川)が溢れたもんなあ。コーラの上の方にある芋田が崩(く)えて、その泥が押し流されて、今度はオータの総代田(そうだいでん)へまっしぐらや。そこは稲田やったが、出かかった穂が泥に埋まっていくとが、わらべ心にも惜(あたら)しゆうしてなあ、オイはほんのわらべやったが、よう覚えとる。大人のシは手だしもでけんで、オータの上の道から見物やったろう。
その晩つけ、まだ空が、こう、薄明るかったが、どい(どこ)からか、ドーンていう大砲みたよな音がして、はて、また諏訪之瀬やろうか、て。そい(そこ)から逃げて来た者に聞けば、「御岳の火噴きにすっと、音が違ごうちょん。地鳴りがせんもん」て。間を置かんで、まーた、ドーンやろう。どっか近くやなかか(なかろうか)、異国の船がやって来たとかも知れんて言うて、そりゃ大騒ぎよ。どこそこの島にイギリス船(ぶね)が打ち揚がったとか、揚がらんやったとか、噂しよったころやもんなあ。女と子どもは山さね(へ)逃げろ、て言うて、オイドンなんどが支度しとれば、支度も何も無か、逃げるさばくりしよれば、浜から戻ったひとりの二才衆が居って、言うとじゃった。「異国船じゃあ無か。山が崩えとるんじゃ」て。
そのアニが言うとには、ハエノハマでイヲ釣りをしての帰り、山道を上って来たら、目の前を何かが、恐(おと)ろしか勢いで滑り降りていった。はては、ヤマンカマツリ(山神祭り)の日にイヲ釣りなどしたで、神様が腹かいた(怒った)とやなかろうか。竹がなぎ倒しされた跡を目で追えば、根っこを付けたままの太か樹が下の方の岩に引っ掛かっておる。
そのただ今あと(直後)、まあ一度、ドーンていう太か(大きい)音が腹に響くと、今度は、頭の上を岩混じりの泥水が飛んでいって、アニは恐ろしうなって、慌てて浜へ戻ったが、落ち水は滝のごとなって、やいやい(どんどん)先さめ(へ)広がっていくとじゃもん。浜と反対の方へ崩えが延びていくふうで、このままやれば、部落が呑みこまるっかも知れん。皆に知らせんな、て肝を潰しながらマエノハマへ出て、そこから浜づたいに部落に戻る考げえで、崖上を見ながら急ぎよった。
いくらも経たんで、先のよりも太か落ち水が浜まで飛んで来て、人間の背丈もある大石がいっしょき(同時に)転がり落(お)ててきた。浜に下って来っときにゃあ、鬱蒼としよった山道が、赤土を剥き出しにして、形も無か。
アニは行く手を遮られて、前にも後ろにも動けんた。このままやれば、石の下敷きにならんとも限らん。ありがたかことに、潮が引き始めとったで、沖へ大回りする考えで、サンゴが沖に落ちこむヤトのにき(近く)を膝まで潮に浸かって行くばってん、ほんのにきに大岩が転がってきて、胆つぶしやった。あたりの海は泥一色で……
部落では、異国の船でないことを知り安堵の空気がながれた。足元がかすかに確認できる夕闇の中を、男たちは松明をかかげて山崩れの様子を見に出掛けた。浜へは下がらずに、切替畑(きりかえばた)が開かれている山手から見ようということになり、ゲーロのツヅを過ぎてからは、二股に別れいる道を、浜へではなく、山の方に入って行く。松明で足元を照らしながら進むと、泥道がゆっくりと浜の方に動いているのが分かった。皆は青くなってとって返したが、幾らも経たないうちに、上のほうの山が畑ごと滑っていった。
*
……いま、クエンバタケ(崩えん畑)が開かれとるところやろう。そんころ、坊さんがひとりこの島にもおって、崩えが部落に近寄らんごと、くい止めんなあ済まされんて言うて、ひとり念仏を唱えて崩えを前にして座っちょった。臥蛇にしばらく居ってからここにやって来た人や、て聞いたが、まことかどうか。キタからの旅の人間なあ、心を許すな、ていうが、この坊さんは違ごうちょったろう。皆が、「危なかで」て、言うが聞かん。翌日も翌々日も、一心に拝みの手をほどこうとせん。やっとかっと(どうにか)雨も止み、崩えが収まったふうで、三日目に、部落のシがかねて(いつも)のごと、唐芋のふかしたとを坊さんに届けに行ったなら、前の日まであった山が、坊さんごと流されて、見あたらん。大騒動よ。じゃばってん、崩えが恐ろしうて、近寄ることもままならん。目の前にぽっかり、底無しのガマ(穴)が口を開けておるし、海を見下ろせば、アニが逃げて帰ったヤトのニキは大岩に埋まって、ヘタ(陸)がはるか沖まで延びとった。それから何日もせんうちに崩えは鎮まったが、あいは(あれは)坊さんが島を護ってくれたとじゃろう。皆して御霊を祭ろうて言うことになって、積み石をこしらえて、高さが三尺ある丸石を据え、そいから(それから)、沖にでけた新(にい)か瀬は坊さんの座っとる神瀬やから、人様が跨いではならん、ていうことになって、皆して、沖のクエンサキ(崩えん崎)に手向けして、その沖を通る舟のシもこうべを垂れて……
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オシマバアは、背後の笹づれと、目の前の潮騒に耳を澄ましていると、満ち上がりの潮がサンゴ棚に寄せてくるように、ゆっくりと、何かが体の中に満ちてくるのだった。
神瀬を背にして沖を伺う万蔵の褌姿が照り返しの中に浮かんできた。海は少しも荒れてはいない。その後ろ姿は、魚突きに向かう民雄のようにも取れる。歳月が煮詰まり、ふたつのものがひとつに溶けていた。「今日あたり、帰って来っかも知れん」。オシマは表情も変えずに再び歩き出した。