トップページ /南島学ヱレキ版 / 第11回 タクシードライバー
メニュー
南島学ヱレキ版 航跡 南島資料室籠屋新聞 トカラブログ リンク

第11回 タクシードライバー

彦次郎が入院したという知らせは息子の徹から聞いた。わたしが鹿児島港から村営定期船で十島村の平島に渡った同じ便に徹も乗っていて、「きょう、市内のK病院へ親父を入院させてきたがよ」と言う。彦次郎は何年か前に胃ガンの手術をしたのだが、今度はガン細胞が喉に転移して、再手術しなければならない、とのことだった。わたしは、その話を聞いた三週間後に再び鹿児島市に出てきたので、彦次郎を見舞うことにした。

訪ねて行ったK病院にはいなかった。大学の付属病院へ転院したと、受付で教えられる。Kでは手に余る病状だったのかもしれない。付属病院は県内では最大の規模と技術を誇っており、ここで見放されたら、後は回復の望みはないとまで言われている。バスと市電を乗り継いで付属病院へ向かう間、朗報のかけらでも手に出来たらと願う一方で、病魔はそんなに甘くはないぞ、と冷めた自分が水を差す。

四人部屋の病室のベットに横たわる彦次郎は眼を閉じ、両手を腹の上に組んでいた。室内はきれいに掃除されて、異臭もなければ、見苦しいものひとつ床に落ちていない。病室といえば、消毒液のクレゾール臭が付きものだったが、それは過去のことである。

薄掛けの下の体が小さく見えた。往年の胸板の厚い体躯はどこにいったのだろう。ただでさえ頬骨の張っている顔に、骨が頬を突き破って飛び出しはしまいかと思うほど、肉がこそげ落ちている。いやな予感がする。わたしは、カーテンの向こうの同室者を気遣いながら、声を殺して呼びかけた。

「彦ジイ! 彦ジイ!」

彦次郎はゆっくりとした動きで瞼を開いた。

「ナオや?」

かすれた声が返ってきた。すぐにわたしが誰であるかを認めたので、まずはホッとする。

「じゃよ」

わたしはすかさず返事をしたものの、腫れ物に触る気持ちに変わりはない。どんな体調かも分からないから、何を話題にすればいいのか、どこまでくだけたもの言いが許されるのか、との自問に縛られる。必要以上に縮こまっても、病人の気持ちを落ちこますだけだろうし、だからといって、はしゃぎ声を出すのは場違いである。

「徹から聞いて、K病院に行ったが、彦ジイが居らんとにーっ」

語尾を上げて、いささかおどけた口調で口を尖らす。彦次郎は目元をわずかに緩めた。わたしが腰掛けを目で探していると、彦次郎が頭を枕に着けたまま、顔を横に向けて、壁際にある椅子をあごでしゃくった。

西洋便器に似た、真ん中に同心円の穴のあいた丸い椅子を引き寄せて、彦次郎の左脇に添う。わたしは腰を下ろしながらで、何のこだわりもなく左手で彦次郎の左手を握る。その手の冷たさに全身が震えた。まるで、日陰の石か何かを掴んでいるようで、体温が感じられない。握った手の甲はシミだらけで、骨が浮き出ている。干からびたミイラのようだ。この手で、何百、何千というカツオを釣り上げ、コボシメという名で呼ばれている紋甲イカも突いたはずなのに、と何かの間違いではないかとさえ思った。

わたしも下手なコボシメ突きのひとりであったが、彦次郎とは一度だけ競ったことがある。島の南東にあるニローガハマはコボシメが毎冬に産卵のために寄ってくる入り江であるが、そこの海で先陣争いをしたのだ。コボシメは一度巣を荒らされると、しばらくは姿を現さないから、突き手は早い者が勝利する。

彦次郎は舟から、わたしは岸から、ほぼ同時に海に飛びこんだ。互いがけん制しながら潜っていくのだから、集中力がこそげ取られる。その隙をコボシメも見逃しはしない。墨を掃いてふたりの目をくらましたかと思うと、深いサンゴの割れ目へ逃げこんだ。彦次郎はモリ竿を握り直して、泡を吐きながら、果敢に潜っていく。わたしは途中で息が続かなくなり、浮上した。

海面に顔を出して苦しい息をしていると、彦次郎も間もなく顔を出した。数メートルほど離れて、何も刺さっていないモリ先が海面に立てられた。捕り逃がしたらしい。向き合う互いの顔は、ゆがんでいたが、水中メガネの奥の彦次郎の目は少しも苦しそうではない。突き損じた怒りが内攻して、自身を苦しめている気配もない。それとは反対に、手堅い日々を送る人間に特有の、自信のようなものうかがえた。「おまえに突く機会を譲ったのに、失敗したではないか。次は頑張れ」と、わたしを煽っていた。動きに少しの無駄もないことは、これまでの彦次郎を見ていれば分かったはずだ。競った、と勘違いしたわたしは、コボシメにも彦次郎にも見透かされていた。

わたしは、あのときの彦次郎と、目の前の彦次郎との落差にとまどいながらも、島の人がするように、型どおりの報告をした。

「島の組(しまんくみ)は皆元気にしちょっど。」

「そうな」

彦次郎はわずかにうなずく。鹿児島市のような、何十万人もいる都会では、知らない人ばかりであるが、八十人そこそこの島では、幼児のひとりひとりまでも名前と顔が一致する。一日に何度も同じ人間とすれ違わなければならない島にあっては、空気が煮詰まり、息苦しくなることがある。そんなとき、新鮮な外気を思いっきり吸いたくなる。その一方で、ひとたび鹿児島に出てくれば、早く島に戻りたいという願望を押さえることができない。人の出入りもなく、外気にかき回される心配のない島がどんなに心安らぐか、誰もが知っている。遠く離れた島のひとりひとりの消息を気にするのは、彦次郎ばかりではない。

「徹も毎日ヨシドメの仕事に出ちょっど」

わたしがひとり息子の徹の名前を出したのは、彦次郎が喜ぶともくろんだからだった。徹と一緒に焼酎を酌み交わした、などと報告できればよかったのだろうが、わたしが島に滞在している間に、その機会は回ってこなかった。ただ、ヨシドメ建設が請け負っている村道の仕事に、徹が元気に通っていることは知っていた。憶測ではなくて、確かなできごとを伝えることが、島では何よりも大切にされる。体を張って生きていれば、漠としたコトバは饒舌に繋がり、宙に霧散する運命にある。

「喉の手術をすっとか?」

わたしの直截な質問に、相手は涸れた声を絞り出した。

「イニャ(否)。センセイがなあ、しばらく、このまんまで様子を見ようや、て」

そのコトバが何を意味しているか、彦次郎は詮索するふうでもない。ゆっくりしたもの言いには透明感すらあった。

「ええ」

相づちを打ちながら、わたしは、これが最後かも知れない、と直感した。すぐに時間が止まってしまう心配はないのだが、急かされた気持ちになり、黙っているのが怖かった。何を喋ろうか、わたしが知っていることで、彦次郎に伝えられる確かなものは何だろう。

とっさに浮かんだのは岡山の勝巳アニのことである。わたしがまだ平島で暮らしているころ、関東にある実家に向かうときは、その行きか帰りには、必ずといっていいほど立ち寄った先である。勝巳は臥蛇島の人である。その島にわたしも居た。彦次郎の居る平島に移ったのは、臥蛇島が無人になってからである。彦次郎も何度となく岡山詣でをしている。徹が一時期、その地で働いていたからだった。

「オイはこれから関東さめ(関東に)上るが、途中で岡山に寄っていこうかな、ち思うとる」

「岡山な? 貞子が喜ぶやろうで」

「勝巳アニもケー死んで、貞子ひとりやもんなあ」

わたしが勝巳の名前を口に出した時、彦次郎の瞳の奥が輝いた。わたしの手の下で静かに納まっていた自分の手をそっと抜き、脇の手すりを握る構えを見せた。上体をベッドの上に起こそうとでも思ったのだろう。

彦次郎は大正十五年、つまり、昭和元年の年に生まれているから、いま、八十歳を超えている。父親を幼いときに亡くした。漁に出て、沖で突風に煽られて、本人はおろか、丸木舟の板切れ一枚も浜には打ち上がらなかった。若くして寡婦となった母親は、周囲の勧めもあり、北隣の臥蛇島へ縁があって嫁いでいった。定期船も通っていない時代であり、丸木舟に帆を掛けての嫁入りである。隣り島であっても、面会することもままならない。彦次郎は幼くして、実母と生き別れ状態になったわけだ。そのせいか、老いても母親を慕う気持ちが強かった。彦次郎は実母のことをいつも「お母さん」と呼んでいた。他の者たちは島コトバの「おっかん」を使うか、内地風に「おふくろ」を使うのが普通であったから、「お母さん」には三歳児の響きがあった。

小学校の高学年のころ、実母が一度だけ里帰りした。母親は、丸木舟がマエノハマの砂浜に乗り上げるのを待ちきれず、浅瀬に飛び降り、膝上まで潮水に浸かりながら沖から浜に駆け寄った。彦次郎が母親に抱きしめられたのはそれが最初で最後だった。四人の異父弟妹を残してまもなく他界した。乳飲み子を抱いていた母親が、就寝中にネズミに顔をかじられ、そこから入ったばい菌が全身に回り、息を引き取った。ちょうど、竹に赤い実がなり、野ネズミが大量繁殖した年である。

実母が臥蛇島でもうけた第一子が勝巳である。ひとりっ子だった彦次郎は、四歳下の弟が誰よりもいとしい人に思われた。一度も顔を合わせたこともない勝巳が、小学校に入学すると知ると、育て親の伯父が鹿児島みやげに自分に買ってくれた、二本しかない鉛筆の一本を、竹筒に納めて船便で贈った。そのころはすでに村営の定期船が月に一度か二度は島々に寄港するようになっていたのだ。長じては、台風で勝巳の家の屋根の笹萱が吹き飛んだと聞けば、自分の仕事を端寄ってでも駆けつける。連れ合いに、「ワイは平島の衆(てらんしまんし)や?臥蛇の衆(がじゃんし)や?」と、皮肉られる。凝縮された日ごろの想いが、ちょっとしたきっかけで、噴出するのであろう。気持ちは絶えず十浬の海原を隔てた臥蛇島へなびいていた。

「岡山に行ったら、オイの分まで線香上げてくれ。貞子にもよろしくな」

抑揚を欠いた彦次郎の声がわたしの耳元に刺さる。彦次郎の熱い想いとは無縁に、自分の中の本心がどこにあるかも分からないまま、相手が喜びそうなことを口にしてしまったという思いを強くした。これが最後の約束ごとなのか、と思い直すと、少しは気が楽になった。それもつかの間、こんどは、その最後が頭にこびり付き、急に気持ちが昂ぶる。

「彦次郎ジイ! 元気にしちょらな、つまらんど! な!」

わたしは力をこめて、コトバのひとつひとつを区切った。幼児を諭すような口調を借りて、自分の脆さを相手に悟らせまいとする。終わりの方は喉が詰まってしまった。腰を浮かし、顔を床に落としたまま、椅子を元あった場所に戻す。まともに目を合わすことができず、速い動作で仕切り用のカーテンを引いた。強引とも思える幕引きをして、病室の外に出る。目先が霞み、ふらふらっと足元がよろけた。

ナースセンターに寄り、時間外の見舞いを許してくれた礼を言う。七階の病室に別れを告げ、エレベーターで一階の玄関に向かった。濃密な時間に耐えかねて、心臓がドキドキと鳴っている。

わたしは、その日の午後に、日豊線に乗って宮崎県の日向市の友人宅へ向かった。薄暗くなってから友人のアキラ宅にたどり着いたが、当人は留守であった。携帯電話で連絡をとる。

「ナオねえ? 鍵はどこも掛けとらんけん、勝手に座敷に上がり、ゆっくりしとらんね?」

のんびりした調子の日向訛りが返ってきた。アキラはタクシードライバーで、明朝の三時まで乗務しなければならないとのことだった。

「冷蔵庫に寿司と刺身が入っとるし、それと、風呂もすぐ入れるごと、湯を張っとるけん・・・」

わたしは到着時間を特定せずに、夕方近くに訪ねるからと、あらかじめ連絡をしておいた。汗の浸みたシャツを着替えて、早くすっきりした気持ちになりたい。広い座敷の真ん中で素っ裸になり、土間に下りて、そのまま風呂場に向かう。仕切り戸を開け放ったまま、湯船に浸かると、土間を挟んで座敷が見渡せた。その向こうに縁側があり、前庭も見える。農家の作りは間仕切りが少なく、家全体がどこもかしこも、すけすけの丸見えになっている。

庭に目を遣ると、何と、薄暮の中でフクロウがキンカンの木に止まっていた。周囲が黒ずんでいるのに、そこだけに光が当たっているかのように、全身の羽毛を銀色に輝かせていた。まん丸で愛嬌のある目玉に似合わず、嘴が妙に鋭そうだ。こんな住宅地にどこから迷い込んできたのだろうか。深い森が近くにあるのかも知れない。

暗さが増してきて、葉の形もはっきりしないのだが、植わっているのがキンカンであることは分かっていた。何年か前に、その実を収穫した記憶があるからだ。

あれは梅雨に入る前だった。近郷の農家を訪ね歩いて、庭先仕事に明け暮れていたのを思い出す。戸別に訪ねた家から注文を貰い、背負いカゴや米揚げザルの類いを編んでいた。文字通りの庭先で編んでいた。裏山から伐り出した竹を割って、薄くて細い竹ヒゴを作る。初め、注文主は疑い深い表情でわたしを見ていた。

「いま時分は竹の伐りどきが悪かで、虫が食うとじゃなかろうか?」

農家の人は昆虫の生態をよく知っている。竹はコメ科の植物で、伐りどきを間違えると、コメを食い荒らすコクゾウムシとそっくりの虫が、竹カゴを食いちぎってしまう。薄く割いてしまえば、まず虫は付かない。

「お客さん、心配はいらんですよ。芯に使う肉厚の竹は、伐りどきの良かとを持ち歩いとりますけん」

所在不明のコトバを使って、その場を凌いでいた。

師匠が子育てで忙しかった時代、それは昭和二〇年代ということになるが、農閑期には必ず庭先仕事に出かけていた。報酬は現金で受け取ったり、手持ちのない農家からはコメや豆で払いをしてもらった。

一軒の農家の注文を仕上げるまでは、注文主が宿と飯を用意してくれた。熊本の人吉盆地でのことである。車もないころだったから、徒歩で峠を越えて、椎葉村にも足を延ばした。四囲を高い岩壁で遮断されている村であるから、外の世界との交渉もままならない。それで、師匠の来訪は村の初冬の風物詩でもあった。あちこちの農家からお呼びが掛かった。ひときわ山深い地域では、隣の家に移るのに、ワラジを二足潰したという。わたしは、毎日アキラの家から車で近郷に通っていたので、弁当も自分で作って出かけていた。おみやげ用に、キンカンを毎朝、スーパーの袋いっぱいにちぎり取っていた。

フクロウがキンカンになり、キンカンが庭先仕事へと飛び火する。紐が放たれた風船のように、ふわふわと気持ちが移ろう。湯から上がって座敷に戻ると、パンツと半袖シャツだけで食卓の前に座る。サラッとした風が肌を撫でる。この屋敷は、洲砂の上にできた干拓地に建っているから、浜風がよく抜ける。耳立てているつもりではないのだが、一匹の蚊が羽音を立てているのが聞こえた。一〇月の中旬なのに、夏のなごりを引きずっていた。

それにしても静かだ。家の両脇は畑であるが、背後には住宅が数軒建っている。家の前には、幅が五、六メートルある道が走っているが、車はただの一台も通らない。道向こうに、樹木が生い茂る緑地が広がっていることも静けさの一因のようだ。縁側から闖入してくるものは、闇ばかりである。フクロウはどこかに飛んで行ったようだ。

わたしは、冷蔵庫からにぎり寿司のパックと缶ビールを取り出して、食卓の上に並べる。左手で缶の胴を握り、右手で栓を抜く。シュポッという破裂音とともに、泡が噴き出してきた。慌てて口にもっていく。渇いた喉に冷えた液体が流れ落ちると、瞑目して、のどぼとけを鳴らした。

あぐらをかいたまま、両の掌を背後の畳に着けて、体をのけ反ると、高い天井から吊された裸電球の明かりが、古家の隅々に溶けこんでいた。座敷に隣接する土間には天井板が張ってないから、茅葺き屋根の骨組みが剥き出しになっている。煤けた梁が明かりを吸って、黒々と輝いている。照らし出されるモノすべてが目に柔らかい。

液晶テレビのスイッチを入れると、あらかじめセットされていたCDが回り出す。画面は休止の状態で、スピーカーから女性の低くソフトな歌声が流れてきた。一九三〇年代のアメリカの倦怠とでもいえる、時代が閉塞している響きが、室内に拡がる。張りつめた空気がどこにもない。時空を超えて浮遊する頭の中で、若い情緒がみなぎってくる。

アキラが鹿児島の大学の四回生であったころを思い出していた。すでに三〇年近く前になる。

「卒業論文に郷里の一向一揆をまとめようと思って・・・」

そう言いおいて、夏休みを利用して資料集めに帰省した。わたしはそのころ、西鹿児島駅近くのアパートで暮らしていて、昼間は県立図書館に通っていた。本を読むためではなくて、その場所を借りて、臥蛇島の大福帳を復刻すべく、孔版に文字を刻んでいたのである。出版したいという願望がどこまで本気なのか、自らに試している最中だった。無人になった島もかつては人が息をしていたのだ、という証拠を残そうとしていた。その欲も確たる自覚があったわけではない。見通しもないまま、ひたすら単調さと向き合っていた。夜は繁華街でクラブのボーイをして、糊口を潤していた。アキラは同じ店のバーテンであった。

アキラの卒論書きがわたしは気になった。筋道を立てることに長けた学生だから、きっといいモノを書き遺すだろう。書き進む中で、見えない相手に拉致されていくアキラの後ろ姿をも想像していた。

数日後に鹿児島に戻ってきたアキラは、わたしのアパートに立ち寄ったのだが、あいにくわたしが留守をしていた。四畳半の真ん中に走り書きの便せんを一枚置いていった。「夏は好きだ。脳髄が乾いて、バランスがとれなくなるから」。

字面はおどけていたが、ぴりぴりした神経が底に流れていた。わたしは、灼熱の砂漠に病んだ肉体を晒すランボーの詩を思い出していた。アキラはその後、しばらくは顔を見せなかった。年が明けて、卒論の筆もだいぶ進んだことだろうと、わたしが思い出していると、突然にアキラがアパートにやってきて、

「卒論は止めたから・・・」

と、ただでさえ細い目を線にして笑う。目とは裏腹に、額には縦皺を寄せていた。留年する意志もなく、学校も辞めるという。

「モノを持たない気楽さがいいね。卒業証書は三文ぐらいの値打ちかもしれんけど、財産には違いなかもんね」

そんなことをこの数ヶ月の間考えていたのだろうか。歯切れが良いのは、揺らぎがちな決心を鼓舞するねらいがあったようだ。わたしも笑いに引きずられていった。拉致される心配がひとまず消えそうだったし、何よりも、確かな日常を後回しにしたからだ。わたしは、花いちもんめを歌いながら人取り合戦に勝った気分だった。

アキラが二〇余年にわたる鹿児島暮らしを切りあげ、郷里の日向市へ戻ったのは五年前である。老いた母親を看るためだった。永年の業であった印刷屋を畳むのには都合の良い時期でもあった。コンピュウター処理が急成長している業界にあって、手動の印刷機では太刀打ちできない。

帰郷後、間もなくして親は亡くなった。独り身であり、家賃もいらない暮らしだから、しゃかりきに働かなくてもいいのだ。「食えればいい」がアキラの素直な気持ちであった。初めは新聞配達夫として暮らし、購読者の勧誘にも回った。アキラが人口六万弱の市内をくまなく歩いてみると、意外なことに、外国からヨメに来ている女性が多いことに気づく。黄色人種ばかりが街で目に付くが、白人もいる。南米からだったり、バルト海に近い緯度の高い国から来ている人もいる。アキラがその人たちにありがたがられたのは、ちょっとした相談相手になってあげたり、隅っこに籠もりがちな者同士を引き合わせたりしたからだった。人の心に空気穴を開け、せいせいした気分にさせるのが得意だった。楽しんですらいた。亡き父親は、周囲から「各停オヤジ」と呼ばれた人だった。地区の世話役も務めた人で、どうしたらいいか迷っている人が目にはいると、その場を通過できない。先を急ぐ上級列車ではなくて、通過駅を持たない各駅停車なのだ。アキラも親の血を引いているのだが、生涯くり返すであろう習性を自覚していない。

仕事を放り出してむだ走りをしていたはずなのに、何人もいる拡張員の中で、新規購読者の獲得数がトップになるのには、時間がかからなかった。

タクシードライバーになったのはその二年後である。もっと気ままに過ごせる仕事はないだろうか、と探しての転職であった。が、この方も七〇人か八〇人いる同僚を差し置いて、売り上げがトップになってしまった。アキラを指名する客が増え続けるのが、配車係には不思議でならない。本人には、人と競う意志がまるでないのだから、そう思われてもしかたがない。

自分が親しくしているひとりの同僚がいて、その男の身近な夢は、ひと月でもいいから、売り上げのトップになることだった。アキラはそれを知って、自分の走行距離を意識的に減らしたことがある。その男の出は、日向市の南に隣接する南郷町で、大学の卒論で扱おうとした百姓一揆の首謀者の末裔であった。

こんなこともあったと、わたしに話してきかせた。まだ、三〇代と思える女を、深夜の歓楽街から乗せて、郊外への道を走っていた。熱帯夜であったから、冷房を効かした室内でも汗がにじんだ。化粧の香がひときわきつく臭ってくる。乗ってきた客の気詰まりを少しでもなくそうと、自分から声を掛けた。

「この暑さは何ごとですかねえ。こんな夜中にハンドル握っとってもですよ、二の腕から汗が流れ落ちてくるっちゃき・・・・・・地獄のカマの蓋が開けっ放しになっとりゃせんですか?」

アキラの誘い水に、客はほほえんだようだが、無言のまま、のってこない。アキラは、そっとしてほしそうな気配を察知し、それ以上は話しかけなかった。しばらく走ると、後ろから声が掛かった。

「運転手さん、窓開けて良い?」

意表を突く甘え声に、一瞬、バックミラーで後部座席を覗いた。さり気ない声を作って応える。

「どうぞ、どうぞ」

ムッとする暖気が後ろの窓から入ってきて、制服の下に着ていたシャツがべっとりと背中に張り付いた。しばらく走ると、また声をかけてくる。

「運転手さん、泣いていい?」

アキラはドキッとしたが、前方を向いたまま、うなずく。客は少し酔っているようだった。窓から顔を出して、夜風に当たる。どんな嗚咽を漏らしているのか、後方に散っていく声は、運転席には届かない。しばらくすると、気持ちが落ち着いたとみえて、

「運転手さん、ありがとう」

それだけ言うと、窓を元通りに閉めた。アキラは無頓着さを装って、「いえ」とだけ言う。クーラーの目盛りを一ランク上げるが、汗がなかなか引かない。目頭をハンカチで押さえている客の顔がバックミラーに映っていた。

「ここで降ろしてちょうだい」

そう言われて止めた道の脇には、トタン囲いの家が建っていた。道沿いの壁に小さな窓が切られていて、そこから明かりが漏れてくる。家人はすでに寝息を立てているのだろうか、出迎える人もいない。女客が脇の入り口から家の中へ消えると、アキラはもう一度その家全体を見た。

周囲が暗くて分かりにくかったが、幼い子どもが何人かいる気配であった。三輪車やら、プラスチック製の小さなスコップやらが散っていた。主人がいないのか、あるいは、いても、働きのないぐーたら亭主なのか、その女が夜の仕事に出るようになって日が浅いとみた。言葉遣いが玄人ではなかった。不甲斐ないわが身に、フッと涙が出たのであろう。

その女客はどの運転手にもこうは言い出せなかっただろう。アキラは女心を読み取りながら、それとなく出番を用意してあげたのだ。

わたしは、天井に遣った眼を下に向けると、畳が波を打っているのに気づいた。床の根太がところどころで朽ちているようだ。長いこと張り替えていない畳表はすり切れている。両親を看取り、ひとりっきりのアキラには、もてあまし気味の広さであるが、掃除は隅々まで行き届いている。本人の趣味ではなくても、かつて両親が大切にしていた写真や表彰状の類も額に入れて、鴨居の上にていねいに並べてある。不器用さと、細やかさが混然となって同居している。

気だるいジャズボーカルが、古家を漠とした空気で包むと、わたしの胸の内に、ふつふつと満ちてくるものがあった。

ページの最初に戻る>>