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第12回 東シナ海の森

十島村(としまむら)に向かうフェリー・としまの上り便は、未明の四時に名瀬新港を出る。入港はその一時間前だから、わたしは早めに船着き場に行って、星でも眺めてようと思った。午前二時近くに前原の家を出ることにした。そのことを前原に伝えると、

「わたしは昼と夜とが逆転している毎日だから、出港ぎりぎりまで、ここでゆっくりしていけばいいのに」

と、もてなしの気持ちを、不満げな声で表す。わたしは、居場所を与えられた嬉しさに、一瞬迷う。昼夜逆転というのは、何時がその境なのか、四時ではもう夜も終わりを告げているのではないだろうか。境を測りかねたが、質すこともなかった。船着き場でゴロンとなって天空を見上げたい気持ちが燻っていたからである。

二間あるうちの、流し台が据えてある方の間の隅に坐っていたわたしは、ゆっくりと腰を上げる。踏んばった足元の畳がめり込んだのは、波打つ畳の下の根太が腐っているからかも知れない。背筋を伸ばし、低く下がった鴨居に頭が触れると、日常はまったく忘れていたのに、臥蛇島(がじゃじま)の新助ジイの家を思い出した。鴨居に額が割れるほどぶつけて、涙が出たことがある。ジイは、昭和二七年のルース台風で屋根を飛ばされ、その後、地を這うような家を建て直した。敷居から鴨居までの高さを五尺五寸(一六五センチ)の低さにして、”台風銀座”の強風を凌ごうとした。一七〇センチを何センチか足した上背のわたしは、首をかしがせて鴨居をくぐるしかない。屋根には勾配があるから、出入り口の軒先はさらに低く垂れている。まっすぐ立てば、首から上は軒の上に出る格好になった。

初めて名瀬の町に足を運んだ昭和三九年当時、市内の民家は、新助ジイの家と大同小異であった。そのことが嬉しかった。その後、家並みはどんどん新しくなり、いまでは、日本のどこにでも建っているような、内地寸法の新建材に囲われた家がほとんどである。

前原の家は北向きに建っていて、窓らしい窓がない。小さな高窓が壁に切られていても、うずたかく積まれている書籍が開閉を難しくしている。これでは昼間でも明かりを灯さなければ、不自由であろう。建て替えの気配が感じられない前原の家は、世の中の平均からはますます遠のいていくに違いない。

襖を全部取り払って、ひとつの空間として使われている二間であるが、畳に埋まっている敷居が、それとなく使い分けを臭わせていた。片方は学習塾になっていて、細長い座り机ひとつだけが、部屋の長辺に平行するように、真ん中に据えられてある。その隅で、高校生の女の子が本を開いていた。大学入試センターの共通試験に備えての勉強だとのことだ。

「新港まで送って行きますから、ちょっと待っててくださいね」

前原はわたしにそう告げてから、隣りの間に移り、生徒と英文和訳の問題を解いていた。わたしは座り直して室内を見回していると、鴨居の上に胸像写真が二枚飾ってあるのを見つけた。縦長の木枠に納まる老男女は紋付き羽織姿である。他界した両親のものなのだろうか、房飾りを仰々しく垂らした前合わせが、皺に埋まった顔にそぐわない。羽織の肩幅と、顔の大きさのバランスも崩れている。白黒の色調なのに、首の周辺だけが黄ばんだ色をしている。合わせ目を白くぼかした合成写真に、その後、油煙やら埃やらが付着して変色したのだろう。そんなことをぼんやり考えていると、突然、輪郭のはっきりした前原の声が耳に飛びこんできた。

「英語も大切だけど、おじいちゃん、おばあちゃんの島コトバも、ほんとは大切なんだなあ」

前原は、センター試験の準備に頭がいっぱいの生徒を気遣ってか、それ以上は言わなかったが、離れて聞いているわたしには、それが言いたくて生きている人に思えた。

「はい、きょうは、これまでにしよう」

日ごろは、生徒が「帰る」と自分から言い出すまでつき合うから、朝方、東の空が薄明るくなるまで居残る生徒もいる。きょうは前原の方から時間を区切った。

わたしは、開け放しの勝手口で靴を履き、腰を曲げて低い鴨居を潜る。上目に入れた軒の先端から、すり切れたズボンの裾のように、ぼろぼろに錆びたトタンが垂れていた。昼間は屋根が焼けて、室内が蒸し風呂状態になるに違いない。クーラーが取り付けてあるのかどうか、敷居を跨いでから気になった。

低い軒を、前かがみになって潜ると、コンクリートでできた階段の根元に足のつま先が当たった。穴ぐらから這い出す格好で、中腰のまま、段を三つ上がると道に出た。そこは軽自動車が何とかすり抜けられる幅があり、その向こうは人間の胸の高さの堤になっている。

「ちょっと待っててください。生徒を家まで送ってきますから」

「はあ、どうぞ」

「付き添いがないと、夜間に高校生がひとり歩きしていると、お巡りさんに職務質問されることがあるので・・・・・・」

前原は片足を自転車のペタルに乗せて、わたしに断りを言う。女の子は眠たげな声で、「お休みなさい」と、わたしにあいさつした。「さあ、行こう」と、前原に促されると、自分の自転車に跨がり、ロングスカートを膨らませてながら、古見本通りの方へ走り去った。

わたしは夜風に当たりながら、上半身を堤の上に乗り出して内側をのぞいた。二〇メートルかそこらの幅の新川という名前の川であるが、水の流れは真ん中の二、三メートルに過ぎない。流れの両側は土が盛り上がり、堤の根元まで一面に草が生えている。水量の割には堤が異様に高く築かれているのは、梅雨の時期に上流の谷でかき集められた雨が、集中的にここに流れ込んで、暴れ川に変身するからだろう。そのせいか、市内は平地が少ないのに、この川の両岸だけは平坦地が拡がっている。気の遠くなるような長い年月を掛けて、雨は山を削り、土砂を下流に吐き出してきたはずだ。川に沿うベルト状の沖積地には、民家ばかりか、いくつもの病院や学校が広い敷地を求めて集まっている。

新月の夜で、月明かりはなかったが、水面が青白く光っていた。揺らぐ水面が、どうかすると静止した状態になり、光源が反対側の堤の脇に立つ外灯であることを教えてくれた。蛍光灯の反射光がキラキラと目に入ると、この川の上流ではブタが放し飼いにされていたことを思い出した。堤に沿って屋台が並んでいて、ブタや山羊の肉塊が、鉤に掛けられて軒に吊されていた。だらんと垂れた手足が、皮を剥ぎ取られる前の姿を思い起こせた。ハエが黒くたかっていたが、人の近づく気配に逃げる様子もない。ハエまでが、わたしのなじんできた日常から遠く離れた習性を身につけているんだと思えて、目を細めて立ち止まってしまった。

さらに上流には県立図書館奄美分館があった。連鎖の環が繋がり、何代か前の分館長であった島尾敏雄氏の名前が浮かんでくる。一度も会ったことがないのだが、氏の文章は何遍か読んだことがある。同じ海域の島に住んでいたせいか、身近にいる人のように思えた。北緯三〇度を境にして、南の島々と日本が切り離された時代には、十島村の人びとは奄美大島の名瀬の街を見物するのが夢であった。氏の「名瀬だより」には、本土(ヤマト)化のテンポがいまだ緩やかだった時代の島が描かれていて、わたしを夢の街にいざなってくれた。

臥蛇島で暮らしていたとき、同じ村内の南端にある無人の横当島をたずねる機会があった。国土地理院の測量人足として雇われたのである。無人島であるから、村営定期船は通わない。代わって、海上保安庁の巡視艇が送迎してくれて、帰路は名瀬の港まで送ってもらった。そこで上りの十島村行きの便を待つのだったが、待ち時間を使って分館を訪ねたことがある。あいにく休館日であったが、事情を話して資料の閲覧を特別に認めてもらった。閲覧室とは板壁一枚隔てて、分館長室があった。そこから漏れてきた男の声は氏のものだったかも知れない。

「お待たせしました。荷物はわたしの自転車の荷台に積んで行きましょう」

いつの間にか前原が帰ってきて、道脇に置いてあるわたしの荷を持ち上げようとする。

「いや、これはゴロゴロに載せて運ぶから大丈夫ですよ・・・・・・」

わたしは、小さな段ボール箱をキャリアカーに載せてここまで運んで来た。だから、このまま港まで運ぶのは何の苦でもない。

中味は全部が本であった。名瀬を訪ねる楽しみは、登(のぼり)栄一が開いている古本屋を訪ねて、本を仕入れることである。奄美大島全体の人口は、徳之島や諸鈍島といった島々を含めても、十万人そこそこなのだが、出版活動は盛んである。名瀬でしか手に入らないものも多い。そのことは栄一の誇りでもあった。

わたしは今回も、下り便のフェリー・としまが午后四時に名瀬港に着くと、どこにも寄り道せずに店に直行した。閉店後、栄一と酒盛りをし、十二時を過ぎてから、前原の家を訪ねた。「ぜひ、紹介したい人がいるから」と、栄一が案内してくれた先が前原の家であった。折り返して北上する定期船の出港時までは、三時間弱が残されている。栄一本人は明日早くに、大島南端の古仁屋まで古本を仕入れに行かなければならないので、前原の家の座敷にも上がらないで帰宅した。

「じゃあ、その手提げを持ちましょう」

前原はわたしの手荷物を引き受けてくれた。それと、蒸かし芋とカボチャの煮付けが入った手提げ袋も持ってくれた。船室での腹ごしらえにといって、前原が用意してくれたものである。生徒のために作った夜食のお裾分けである。

名瀬の十月はまだ夏である。新川を覗いているときに刺された蚊の跡がかゆい。Tシャツ一枚で歩いていても、汗が噴き出してくる。川の流れに逆らうように、海からはい上がってくる浜風がせめてもの救いであった。前原は自転車のハンドルを両手で握りながら、わたしと並んで歩く。

堤の測道を下流に向けて歩いて行くと、すぐに広い道と交差した。車の一台も通らない道を横切ってさらに海に近づくと、またも幅のある道に突き当たる。馬蹄形に湾入した海岸線に沿って走る大通りである。右に折れれば、新川の河口に架かる橋があり、それを渡れば、ウドン浜の公園がある。ふたりは、車道と歩道が分離した広い道を左に折れた。

人口が四万人ある町であるが、昼間は多くの車が走る車道も、この深夜には人も車も通らない。わたしは、四十余年前にもこの道を歩いたのを憶えている。そのころは狭い砂利道であった。それは、夏の真っ昼間で、町並みは陽炎の中に浮かんでいた。熱のこもった波打ちぎわを、単調な太陽に肌をあぶられているだけの記憶であり、家並みや樹々の姿へ思いを走らすゆとりもなかった。その単調さに安らぎを憶え、わけもなく街全体がわたしを釘付けにしていた。

「島はいたって健康なものですよ。夜と昼を取り違えている人はいないんですから」

前原は無人の道を見ながら自分を笑った。その笑いは、ねじれてもいなければ、こわだかでもない。

「でも、ヤンゴー(屋仁川)通りはすごいじゃないですか」

わたしは、不夜城といってもいい飲み屋街を話題に乗せて、前原の日常が飛び抜けて異様ではない証しを示そうとした。

「ああいう通りも必要なんだ、と周囲が認めているから、あの街にはすさんだ空気はないですね」

街は昼間の健康さの延長上にあるのだろう。通りをひと筋裏に回ると、ネオンの明かりも届かない、静かな住宅地区が続いている。十島村に住む年寄りたちは、「ヤンゴー」の響きに、白粉を厚く塗った女の影を思い起こすのだが、それは日本に復帰する前の風景であった。

コンクリートの縁石を境にしてた車道と歩道とが平行して続く。無人の路面をナトリュウム灯が先の方まで、淡いオレンジ色に染めていた。

「明るいですね」

わたしのかけ声に、

「闇がなくなりました」

と、すぐ返ってきた。前原の年代の者であれば、闇がどんなものであるか知っている。奄美大島が終日給電になったのは、戦後もだいぶ経ってからだった。わたしが最初に上陸したときには、街角の立て看板に、「日本復帰は電力から」という文言が見られた。復帰してすでに一二年が経っていたが、電力事情が悪くて、夕方の数時間だけしか明かりが灯らない地域もあった。一歩街から外れれば、夜道のあちこちに長い棒が立てかけてあった。頭上の木の枝から襲いかかることも予想されるハブを退治するための用心である。さらに闇に分け入ると、気根を長く垂らしたガジュマルの大木の陰にはケンモン(化け物)が待ち構えていて、人間にいたずらをしかけるのだと、まことしやかに語られていた。

「その代わり、月夜の明るさも分からなくなって・・・・・・」

以前は、湾内で目に入る明かりを探すとなれば、はるかな沖合いに建つ山羊島ホテルのかすかな漏れ灯しかなかった。いま、洪水のような明かりが、対岸からこちらに届いてくる。漆黒の海から聞こえてきた潮騒もどこかにいってしまった。わたしは、聞こえない音を拾おうと、耳を立てていると、ちゃっぽんちゃっぽんと、洗面器の中で水が揺れているような音がする。砂浜が埋め立てられて、岸壁にでも様変わりしたようだ。壁にはじけた波が立てる音である。

旧港が右手前方に見えてきた。三千トン級の関西航路の客船が入港したときの驚きは、いまでも鮮やかに蘇ってくる。高層ビルが動いているかと思った。何層にも重なる甲板の手すりには人で溢れていた。わたしが臥蛇島から乗ってきた二百五十トンの定期船が同じ岸にもやってあったが、まるで、赤子に等しかった。その旧港の方角に首を曲げて歩いていると、前原も同じようなことを頭に浮かべていたのか、十島村(としまむら)のことを話題に挙げた。

「わたしもジットウ(十島)には行ったことがありますが、横当、宝、小宝ぐらいで、それより北には行ったことがないんですよ」

やり残した宿題を抱えている生徒のような声である。十島村を「ジットウソン」と発音する人の生まれ年は、昭和の初めまでであるが、戦後生まれの前原は父親の発音をそのまま受け継いでいる。

「いつ頃のことですか? 第二・十島(としま)丸のころですか?」

わたしは、昭和四六年まで就航していた定期船の名前を挙げた。

「いや、オヤジと一緒にサバニで・・・・・・」

「えっ?」

「四〇年も前のことです。サバニで・・・・・・わたしもイトマンでしたから」

父子ともどもが、板付け舟に乗って櫂ひとつで、荒海を渡り歩くイトマン漁民だと聞かされて、わたしは唖然とした。仲間たちは遠く、ニュージーランドまで櫂ひとつで渡っている。定期船に乗って島々を訪ねること以外には渡島手段を考えたことがなかったわたしは、根の浅い質問だったのではないかと、一瞬身を引く。前原は淡々と語り続けた。

「小宝島はエラブウナギが捕れるところでねえ、それを薫製にして、名瀬市内の薬屋に売りに行きよったです。わたしらのころは、もう、船外機を着けとりましたから、名瀬からだと、五時間もあれば行けたですよ」

島の人はエラブウナギが金になるとは思っていなかったから、イトマンの教えをいまでもありがたがる。

「いやあ、ほんとうは、奄美の人はジットウの人に感謝しなければいけないんですよ・・・・・・」

その口調は、内省ではなく、叱責だった。

「・・・・・・戦後の食糧難の時代に、ジットウから送られてくるトン(唐芋)がどれほどありがたかったか」

わたしは、悪い気がしなかった。大島は十島村から見れば、大陸も同然で、そこの住人のすべてが、内地・本土に目が注がれているものとばかり思っていたから、十島のことを気に掛けている人がいると知って、新鮮であった。

「いまでも、ときたま貰って食べますよ。生徒のひとりにパチンコ屋の息子がいて、そのお母さんが中之島の出身でね、シマから送ってくるのをお裾分けしてもらうんだけど、旨くってねえ」

聞いているわたしが感謝されているような気分になってきた。島で暮らしているときであったら、くすぐったくても、耳底に素直に落とすことができたコトバだろうが、いまは、宙ぶらりんのまま、落ち着き先が見当たらない。もともとの出身が十島村ではないのだし、時間を限ってシマに遊びにきた旅行者が帰省者ずらはできない。それでも、まんざらの無縁者ではないという気持ちで聞いていた。

「ジットウは魚(いを)の多いところですよ」

前原の頭の中を、原色をふんだんに散りばめた南の島の魚たちが浮遊しているに違いない。わたしも島にいるころは魚突きをしていた。百人に満たない島には魚屋があるわけではないから、食べたければ自分で調達するしかない。遠来の客人があると分かれば、海に走ったものである。「馳走」の大元の意味を体で教えられた。

「平島にいたときは、わたしも海に潜って魚を突いてましたが、昼間は動きが早くて、わたしの相手をしてくれないから、夜の寝込みを襲って、エビやら鯛やらを頂戴してました。イチョマンのようにはいきませんがね」

平島では、素潜り漁の上手な人のことをイチョマンと呼んでいる。イトマンが転訛したのだった。その響きには、一種の畏敬の念を含ませている。本場のイトマンが島々に渡ってきて、数々の漁法を伝授してくれたからである。中でも、ダツを入り江に追い込んで捕る漁はありがたがられている。昭和の時代に入ってから、島々に伝えたものである。深海に潜水するときの呼吸法もそうである。胸一杯に息を吸い、それを三回くり返えす。その直後に、重い石を抱え、鼓膜にかかる水圧を巧みに調節しながら、一気に潜る。平島の離れ瀬であるトッガケ(徳ガ瀬)とヘタ(岸)との間の海は水深が一三尋(二七メートル)あるが、イチョマンから手引きされるまでは誰も潜れなかった。帯水時間が多くなったぶん、漁獲も増えた。そして、何よりも頼りになったのは、あの水中メガネであった。各自が山に入り、山から切ってきたローソク(ハゼ)の木を、各自が両の眼孔の窪み具合に合わせて、小刀で縁を切りだした。それにガラスをはめ込む。肌にぴったっと吸い付いたメガネはけっして水漏れすることがなかった。こんな道具が自前で作れるとは、誰も知らなかった。メガネを知らない時代は、凪ぎた日にしか素潜り漁はできなかった。水面に菜種油を撒いて、小波を消して、獲物を追ったのである。イチョマンメガネの名前はいまでも島々で生きている。

島は人の出入りが限られているから、イチョマンがサバニを岸に着けて、部落に上がってくれば、人びとの記憶に鮮明に焼きついた。はるかな昔にやってきたイチョマンでも、きのうまで居た人のように語り合う。煮詰められ、濃縮された時間の中で、人びとは自由に時代を往き来している。そんな島にわたしはすり寄っていった。そのことを前原に話すと、

「ちょっと、そこに腰を落としましょうや」

と、わたしを誘った。わたしは、何ごとかと思って、前原の表情をうかがおうとするが、背中から浴びる光の陰となって、顔の凹凸が定かでない。車道との境にある縁石にふたりは坐った。一五センチほどの幅しかないから、お尻が半分ほど車道にはみ出す。同じ方向を向くふたりは互いの表情が見えない。

「わたしは痛めつけられて生きてきました」

タダならぬコトバが剥き出しのまま投げつけられた。語気は荒くもなく、淡々としたものだったが、わたしは心臓をピクンと鳴らした。

「親父は沖縄の糸満、母親もそうです。わたしはここで生まれましたが、家ではシマ(郷里)コトバしか使わないから、小学校に入学しても、作文というものが書けなかったんですよ。おやじは子どものときに売られてますから、学校には出たことがない。だから、字を知らんわけです」

前原は自分がイトマンであることを誰かれには語らない。いまだに色眼鏡なしにはイトマン漁民を見ることのできない人が多いことを知っているのだ。それなのに、語り口にはかげりがなく、軽ろ味すらうかがえた。

「親の会話をまねて、そのまま書くでしょうが。先生に朱を入れられて、作文帳が真っ赤で」

「・・・・・・」

「友だちにはからかわれるし、学校に通うのが怖ろしくって。で、方言札(ふだ)の出る幕がないんですから・・・・・・」

標準語を一刻も早く習得するのが、本土人の蔑みからの解放であると判断した先生たちが、大島方言を口にした生徒に、首から方言札というものを垂らさせた。別の生徒が方言を口にすると、その札を次の”犯人”へ渡すことができた。札を垂らすたびに操行点が引かれる仕組みになったいた。

「わたしは、どっちが方言なのか、先生の喋るコトバなのか、クラスの友だちが話すコトバなのか、いつまでも札を次にバトンタッチできないんです。沖縄の、それも糸満のコトバしか知らないんだからねえ。これじゃあ、何のための罰則だか・・・・・・」

前原は声を出して笑った。笑いはその場で消える類のものではなかった。先を見究めようとする姿勢がうかがえ、コトバが次に繋がっていくことを予告していた。

「・・・・・・でも、遊び相手には不自由しなかったですよ。家はイトマン部落の中にあったですから。八十戸数ぐらいあったでしょう、みんな沖縄から渡ってきた漁師の子たちで・・・・・・」

素潜りのイトマン漁を生業とするのは、糸満の出身者とは限らなかった。八十戸の内には、久高島の人もいれば、伊江島の人も混ざっている。その人たちが陸に上がって、浜の近くに集落を作って暮らすようになった。

「作文以上にわたしを痛めつけたのは、小学校に入ってから、新しくできた友だちの家に遊びに行くでしょうが、そうしたら、そこの親に『イトマンチュ(糸満人)か?』て、奇妙な言い回しで聞かれたことですよ。わたしが自信なげに頷くと、親も子も、心なしか、体を引いた。身構えたような眼になり、初めは好奇の眼が、しだいに怖いものを遠巻きにする眼になり、ついには、敵意を剥き出しにした眼に移っていきました」

前原は半世紀の時間を巻きもどし、切り取とった瞬間を微細に解析した。

「その内、友だちの母親が何を思ったか、口から泡を飛ばさんばかりの勢いでまくし立てて、『イトマンは人買いで、自分の村からも貧乏人の子どもが買われていったよ。かわいそうになあ。親方に怒鳴られながら、暗くなるまで海に潜らされて、言われた通りにしないと、櫂で頭を叩かれて、また潜らされる。泣きながら潜りの稽古をさせられるそうじゃないか。』」

人買いの恐ろしさを初めて聞かされて、前原自身が居たたまれなくなる。イトマン売りになった自分の父親はどんな気持ちなのだろうかと、子ども心にも気になりだした。口の堅い父親からは何も聞き出すことはできなかったが、注意して周囲を見ていると、イトマンが沖で素潜り漁をしていても、陸に上がって魚の行商に歩いていても、突き放したような視線が注がれているのに気づいた。

前原が中学に進学するころには、大島口(おおしまぐち)も並に喋れるようになり、作文にいたっては、学校の代表として、県のコンクールに入賞するほどの腕前になっていた。ある晩、父親が晩酌のほろ酔いの中で、無念さを噛みしめるようにして、ポツリと言う。

「イトマン売りはなあ、眼も開(あ)かん、口もきけんかたわ者や。そのかたわ者の子どもが一等になれば、こんどは大島の衆が黙ってはおらんやろう」

「じゃあ、どうすりゃあいいんだ。親父は、よく言うじゃないか、自分は学校に行けなくてはがゆい思いをしたが、おまえは、りっぱにガクモンせい、て。成績が良くてはまずいんか?」

「大島は、琉球の下にあった時代が長かったから、沖縄には憧れもあるが、反発もある」

それだけ言うと、貝のように押し黙ってしまった。琉球沖縄に替わって一世紀以上が過ぎても、変わらずに活きている意識である、と父親は思いこんでいる。古くは琉球に、近くは薩摩藩に痛めつけられた奄美大島では、明治以降の鹿児島本土へのへつらいが、沖縄とは一線を画す気持ちに駆りたてるのだった。二重によじれた感情がイトマン漁師にぶつけられる。漁師たちが大島に居住する限り、琉球を背負わされることになる。

前原は父親の無念さをくみ取りはしたけれど、大島人の沖縄への憧れは伝わってこなかった。そのことを、いま脇に座っている男に打ち明けたい衝動にかられた。

「ナオさん、同情の眼は、あれは、蔑みの眼なんですよ。直截に手を出さないから、余計にたちが悪い。親父の口を塞いだのは、あの眼なんだ、と分かってからは、世の中の何もかもをぶち壊してやろうかと、本気で思いましたね」

内心の激しさをどう制御しているのかは測りかねたが、口調の静かさに変わりはなかった。やがてその優等生は、父親の反対を押し切って、学校を辞め、父親と一緒の舟に乗りこんでイトマン稼業に精を出す。

「イトマンになってからは、シマ(故郷)のことが知りたくて、奄美分館に行って資料を探したんですが、ないんです。たまに見かける文章があっても、興味本位でしかなくて・・・・・・」

「そうなんですか?」

「ええ。奄美の近現代史の資料は皆無といってもいいんです」

「島尾敏雄さんが分館長のころに少しは収集されたのではないですか?」

「ありません」

「・・・・・・」

「あの人の在島時代の造語に、琉球弧とか、ヤポネシヤとか、ありますが、不思議なことに、名瀬で発行されている印刷物にはほとんど見かけません。沖縄や本土の出版物に見受けるのはどうしたことでしょう」

疑問の形で終わっているが、内心の強い反発がヒリヒリと聞く者に伝わってくる。近現代史資料も揃わないのに大島の歴史を、それも当地の人の頭越しに、語られていることへの憎悪であった。島尾敏雄氏は、これまでの中途半端な歴史観を修正をしようとして、ヤポネシヤというコトバを創出したとどこかに書いていたが、前原には通じない。

いつの間にか、ぶち壊しの対象が大島ではなくて、本土で持てはやされている造語に向けられている。そんな怒りに突き動かされながら、資料をあさる中で、イトマンに向けられた蔑みの目は、当然のことかも知れないと思うようになった。有史以来、漁村が大島には育たなかったのだから、魚捕りが専門の民が突然現れて、陸に上がって集落を作ったのだから、奇異に映るのが自然であるとの考え始める。親父の口を塞いだのは大島の人よりも先に、沖縄の人であることに気づき、イトマン売りの制度こそ、歴史の証言台に乗せ、見逃してはならない。その資料を集めてないのは、看過できなことだった。

「ナオさん、わたしはねえ、この前、子どもの就職のことで鹿児島へ出んですが、船の上で、わたしよりは二十歳は年長の老人と知り合いになりました。名瀬の近くの出身者で、県の委託を受けて奄美大島の漁撈民俗調査をしている人でね、沖縄が復帰する前にも、糸満に行ったことがあると言ってました。話のはずみで、わたしがイトマン漁師だというと、その人は目を丸くして・・・・・・」

それは好奇の眼ではないことが前原にも分かった。大切なものを分かち合うときの親密さすらにじんでいた。その老人が白い口髭に覆われた口元を開いた。

「戦後、沖縄県が緊急調査を糸満市でやったときの報告書があって、わたしも仕事の関係で読んでて、それにもイトマン売りのことに触れてるんだが、ほんの数行だけ。『確かにイトマン売りはあったが、それはヤトイグワッ(雇い子)のことで、身分上の剥奪はなかった』とあるだけで・・・・・・そんな報告書ってあるもんかねえ。これだけたくさんのイトマン売りが生存しているのに・・・・・・」

滑り出した浜下ろしの舟のようで、老人の口は止まらなかった。

「わたしの同級生の中にも買われていった者がいたんだよ。戦争が激しくなる少し前でね、食べる物もない時代で、ソテツ地獄が騒がれたのは、そのさらに前になるから、長い飢餓の時代だったんだなあ。その子の母親が息子からの手紙を持ってきて、わたしに読んでくれって。文面はいまでも憶えてるさ。片仮名だけは書けたんだな、小学の三年生まで大島にいたんだから。『ヤット、ウミノソコヲ サンポデキルヨウニナリマシタ アトスコシスレバ アギヤーガハジマリマス ヤトイグワッハ クダカジマト イゼナジマカラモ キテイマス クラクナルマデ オキニデテイルノデ オナカガスキマス オトウトタチニハ・・・・・・』」

アギヤー(追い込み漁)が始まれば、どれほど親方に叩き仕込みを受けるかは、誰もが知っている。母親は瞬きもせずに聞き耳を立てていた。久高島や伊是名島から来ているイトマン売りが、同じ漁場にいるというくだりにさしかかると、エプロンんの裾をたくし揚げて目頭を押さえた。仲間がいると知って、慰められたのだろう。

「幼い兄弟のために人柱に立ったようなものだよ」老人はしみじみと、そう締めくくった。前原はこのときほど奄美の近現代史が欠落していることが悔しいと思ったことはなかったと言う。もはや、分館長の手落ちなど責めてはいない。資料を自分で探し、作ることに気持ちが向かっていく。八二歳まで元気に潜っていた父親のひと言ひと言が手放せなくなった。

そこまで語ると、前原の話が途切れた。溜まっていたガスを一気に抜いた後の、疲労感のようなものが伝わってくる。ふたりは腰を下ろしたまま、同じ姿勢で前方に目をやっていた。

夜中の三時を過ぎ、ようやく涼しさが増してきた。水際を囲むようにして建っている倉庫の裏側が目の前にある。建物の間から、やたらと明るい光が漏れてくる。さほど遠くない海に、大きなクレーンを積んだ作業船が浮かんでいて、そこから放たれる電光が海面に注がれ、昼間の明るさで照り返っていた。

わたしは、前原の内心の動きを知らされて、ますます口が重くなる。同じ海域に暮らしているだけで、勝手な親近感を抱く人間の内腑に、容赦のないメスが入れられたようなものだった。前原は、体の内側に再び熱が充満してきたのか、力のある声で語り出した。

「島尾さんは、その道を究めるつもりならば、それができる人だと思うけど、中途で発言が終わっているんですよ。小説家としてではないですよ、歴史家としてです。歴史を垂れ流しにしてます」

前原の声が熱風のようにわたしの耳元に吹きつけてくる。わたしは術後の傷跡も癒えないのに、こんどは証人台に立たされたような気持ちになった。わたし自身もこれまでに、いくつかの作文を世に出してきたが、新しく換えたフィルターを通しての再点検を誓うか、と迫られているに等しかった。「シマオ」と「ナオ」が重なって聞こえる。あの鴨居に頭を当てたときから、いや、傾き掛けたあの家の入り口に立ったときから、わたしは前原の金縛りに遭っていた。呪縛を解きたい衝動に駆られて聞いてみた。

「どういうことですか?」

「あの方の家業からしてそうでしょう、明治の新時代になって、親は生糸の取引を手がけていて動いているから、貿易港を渡り歩いている。住まいも始めは横浜で、次は神戸ですものね。学校も高等商業を選んでいる。国の要請に応えて階段を上ってきたのです」

「シマオ」が「あの方」になったが、わたしには「あなた」に聞こえる。わたしは、心臓に悪いことを次から次へとたたみ掛けられていた。自分には階段を上った記憶も願望もなかったはずなのに、本心は別の所をふらついていたのだろうか。地べたに近いほど、モノを観る特等席だと決めていたのに、と泣きが入っていた。

「あの方は島に入ってきた当初は、島の古層を肯定するつもりで、あれこれ探っていたのでしょうが、島の歴史を知るにつけ、『島は分からなくなった』という発言に変わってくる。その背景には、国家意識とでもいえばいいのでしょうか、高みからの眼があって、島への近づき方も上から下へ向かっていた。その破綻ではないですか?」

いよいよわたしは、追いつめられてしまった。高みからの眼で島に接近したという自覚はないが、一歩離れて島を観ている自分を消すことはなかった。高みからと一歩離れてとが同義に聞こえてしかたがない。

「ナオさん、あなたの著書は栄一君から借りて読ませてもらいました・・・・・・」

もう、逃げ場がない。著書とはおそらく、『埋(うず)み火』のことであろう。以前に住んでいた島の古老たちの物語である。あの本は登場人物はすべて仮名だし、それに、人をおとしめるようなことを書いたつもりもないし、と小心が胸元をチクチクと刺す。

「・・・・・・一行、一行、噛みしめて読ませてもらいました。」

「はあ、いや」

「島の姿が瞼に映ります。こうして著者に会えたのも栄一君のお陰です」

わたしは、はぐらかされたが、それもほんの一瞬であった。

「外(そと)から入ってきた人に、島の根(ね)の姿は書けません」

前原は、やはり、この大島ではぐくまれた人なのだ。

「島の根は書けないなあ」

わたしは少しぞんざいな口ぶりになっていたが、それは、呟きが自然に出た証拠でもあった。たえず自分から離れない付け焼き刃意識が、露わになっただけである。

「また、歩きましょうかねえ」

前原に促されて、わたしは、鉛のように固まった身を立ち上がらせる。〈この人はいったい、周囲というもをどう観ているのだろうか。あの家にしても、選んでイトマン稼業に飛びこんでいったこともそうだが、他と異なることを至上のことと考えているのだろうか。あの塾だって当たり前ではない。まずは周囲から学ぶのかも知れないが、中途半端さに愛想を尽かすと、そこから離れることしか頭にない。離れて何をするかといえば、穴埋め作業である。自分なりの道はそうする以外には開かれないとでも思っているに違いない〉。

並んで歩いていたつもりが、わたしはいつの間にか後れていた。あいかわらず、車は一台も通らない。旧港を過ぎてから、防波堤の内側に沿う道へ折れる。高い堤に視界がさえぎられ、昼夜をわきまえない光の洪水から身を護ることができた。

一五分ほどで新港に着いた。入港しているはずのフェリー・としまはどこにも見当たらない。接岸予定時刻は午前三時であるが、それまでは対岸の佐大熊の桟橋に係留されていることになっている。ふたりでそれらしき明かりを探すが特定できない。船では、「どうせ客などいやしない」と決めつけて、四時の出港ギリギリに新港へ接岸するつもりなのだろう。あたりには乗客はひとりもいなかった。モヤイ綱を取るはずの係員も見当たらない。ふたりは、倉庫が背後に建ち並ぶ広い船着き場に出て、海上を眺めていた。わたしには前原に声をかける気楽さが消えていて、内に気持ちが向かっていた。

島から名瀬の街に出てきて、再び島に戻るわたしだが、けっして、島の内側の人間ではない。内に惹かれる衝動を止めることができないだけである。そんなことを考えていると、ふと、イシが記憶の底から浮上してきた。

一世紀も前に死んだヤナ・インデイアンの男である。アメリカ西部開拓に押しよせる白人に追い散らされ、同じ部族のすべてが死に絶え、ひとり残ったイシは、森の奥深くに逃げこむしかなかった。ときたま、広々とした草原が見たくなり、森の切れ目から無人の原っぱを眺めて深呼吸をする。すでに殺意も薄れた白人たちはどこか別の地に移っていた。イシがその気になれば、全身を晒すことも危険ではなかったが、いくらもしないで森へ舞い戻った。白人の襲撃を恐れたのではなく、森に囲まれていないと生きていけない人間になっていたからである。わたしはいつの間にかイシに惹かれるようになった。島を離れて、竹細工に身を入れるようになってからは、イシがわたしの体に乗り移っていた。

根元の形が一風変わった竹を探しに出かけたときのことである。太陽がさんさんと降り注ぐ晩秋のある日だった。密生した竹山へ分け入ると、次第に暗さを増していき、足元は夕闇とまごうほどの暗さであった。斜面を下っていくと、岩盤がところどころに露出している。一本の竹が、岩に挟まれながら地表に顔を出していた。わずかな隙間から這い出そうとしたために、根元は扁平な形となり、ほとんど板状になって隘路をすり抜けていた。タケノコが渾身の力を絞り出して、邪魔者を押しのけている様を頭に描いてみた。上の方にいくと、竹はしだいに丸みを取り戻していて、先端部は普通の竹と変わらなかった。そうかと思うと、竹に別の竹がとぐろを巻くようにしてしがみついているのもあった。意表を突く姿がわたしを虜にした。

さらに谷を降りていく。底に狭い流れがあり、向こう岸でイタチが円を描きながらダンスをしていた。森閑とした中で、竹と竹とがぶつかり、キーン、カーンと金属音を立て、それが谷を渡っていく。どこからも光が漏れてこない谷底に身を沈めていると、清涼な滝に打たれているようなすがすがしさあった。このままジッとしていたいという衝動を抑えることができない。

しばらくすると、周囲から流れ込んでくる冷気に関節が軋みだし、頭痛を覚えた。お日様の下に出るつもりで、反対側の崖を登っていくと、こんどは野うさぎが両手を合わせて何かを飯んでいるのを目にした。大きな耳、ビー玉のような目が、時代を超えて生きている森の住人に思えた。住人たちが通っている道に立ちはだかりたくないから、わたしは大きく迂回して登っていく。

いくらもしないで、斜面は平坦な地形に変わり、光が漏れてきた。暖かい外気が頬を撫でると、体の末端まで熱い血がどくどくと流れていくのが分かった。もう頭の痛みは消えていた。里山に出るつもりで、境をなしている竹をかき分ける。天空いっぱいの光が顔面に降り注いできた。眩しくて目を細める。踏み出そうとした一歩が宙に浮き、次には、その足を無意識の内に後ろに引いていた。わたしは再び森へ戻ってしまった。

「前原さん、もう遅いから帰ってください。大丈夫ですから」

「そうしますか。元気で。またお会いしましょう」

「ありがとうございました。前原さんの塾から、ひとりでも島の根を書いてくれる人が育つといいですね」

「ええ、きっと出ますよ、わたしの塾から。あなたのように」

「えっ?」

「ひとりといわず、三人でも、四人でも出てくると思います」

わたしは前原の掌の上で、との間を右往左往していたことに気づき、照れた。わたしはいま、海原に囲まれた”森”に戻ろうとしている。

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