茶封筒の中の宮本常一先生
臥蛇島が無人島になると知って、わたしはなにもかもを端寄って島へ向かうことにした。
「先生、島へ行ってきます」
それだけ言って研究所の外に出た。先生の他にわたしと同じ年格好の若者が数人部屋に残っていて、調査力ードに何かを書きこんだり、撮ってきた写真の整理したりしていた。わたしは斜に構えたところがあり、あんなことをして楽しいのだろうか、と冷ややかな視線を皆に送っていた。考えてみると、自分のしていることを楽しいとは感じていなかったのだから、ひとのすることにけちを付けたがる性悪な根性の現れであった。
それというのも、わたしは二十二歳で、何もかもかなぐり捨てたと思いこみ、「文字からもっとも遠い人間でありたい」と、自らに誓っていた。せっせと体を動かし、汗をかいていれば間違いがない、と信じて疑わない。だいぶ後になって身辺を整理していたら、当時のメモ帳が二十冊も出てきて、そこには絶叫に近いことばがびっしり詰まっていた。誓いはなし崩しに破られていた。斜に構える姿勢もそうした中途半端な夢への未練であったろうか。
わたしが研究所を訪ねる楽しみは、誰かをつかまえてお喋りすることであり、何かを研究するわけではなかった。そんな人間の出入りも許されていたのだから、通り一遍の研究所とは違っている。所長は宮本常一先生である。
廊下に出ると、むっとした暖気に包まれて、額から汗が吹き出てきた。所内は冷房が効いていたんだと知る。回廊の反対側にあるトイレに入り、小用便器に向かった。器は三つ並んでいて、それの一番奥に立った。目の前に白壁が迫っていて、押し戻されそうな気特になる。焦点をぼかして漫然と眺めていると、先行きの不安がふくれていった。〈島で何をすればいいのだろう……〉
用を足していると、人の入ってくる気配を背中に受けた。心して壁から目線を外さないようにしていると、わたしの隣にひとりの男が立った。離れて立てばいいものを、と不快の念を露にする。男はわたしの頬に息がかかる近さに寄ってきて、「え、へ、へ」と、呆うけた声をあげた。
「なんだ、先生ですか」
「いつ発つんじゃい」
いたずら好きの少年の物言いである。老眼鏡を鼻からずり下ろしてニコッとした。
「あしたの夜行で……」
「うん、そうか。島はいつ無人になるんじゃ?」
「来月、七月二十八日です」
わたしは、何か手に負えない難問を抱えていると、人の話も上の空になる。早く会話を切りたくて、要件だけを短く答える。前ボタンを止めて壁から離れると、先生が行く手に立ちはだかる格好になった。上着のポケットに突っこんだ腕首を引き抜くと、茶封筒が手のひらに収まっていた。
「これ持っていかんか」
先生はわたしを追いかけて来たのだ。周防大島のことばをさりげなく散りばめた物言いには尖ったことろがない。知らず知らずのうちに、相手を包みこんでしまう。そこには先生の計算が働いているのか、もって生まれた気性が発露されたまでなのか、わたしには分からない。わたしはその魔術に掛かると、斜に構える気持ちが萎え、島のジイを前にしている時の素直な自分になってしまう。
その時、素直さを押し分けて、わたしの頭の中を駆け巡るものがあった。「路銀は道々で稼ぐもの」という声である。封筒の中身が何であるかはすで察知していた。ひとり歩きを始めてからこっち、二十八歳の今日にいたるまで、金科玉条のように自分に課していたお題目である。あらかじめ金子を用意してから出掛けるのではなく、手元不如意になれば、行き着いた先で稼ぐことを己に課していた。身を晒すにはこの手しかないとすら思っていた。晒せば何かが身につくと信じていたのだ。“晒す”とは、“道々で汗をかく”と同義であった。
わたしの一瞬の躊躇を先生は見逃さなかった。
「持って行きなさい。しっかりと島の最後を見届けにゃあ……」
率直に喜びを表わさないわたしに先生は苛立ちを覚えたであろうが、諦めない。
「ガキアン……」
わたしは所員の皆にそう呼ばれていた。先生の呼びかけには、心なしか腹に力が入っていた。
「ガキアン、外に目を向けんと……名瀬の島尾敏雄君をみてごらん、あんな離れ島におっても、けっして孤立しちゃあおらんよ」
必要があれば外との懸け橋は自分も引き受けよう、との含みが言外に伝わってきた。わたしとしては、路銀を道々で調達することが、どうして孤立していることになるのか、のみこめない。意固地になっちゃあいかん、急ぐ時は急ぐ、もっと臨機応変に動け、という諭しだったのかも知れない。わたしは鹿児島まで歩いて三カ月の道程を楽しむこともやりかねない。先生だって若いころはそうではなかったのか、と言葉には出さなかったが、顔に表れていたに違いない。
二年前にも似たようなことを先生に言われた。その時、わたしは臥蛇島で暮らしていたのだが、漠とした夢は島の青年になることだった。ほかの島民がするように、牛を飼って暮らしを立てる決意も未だわいてはいなかった。島にあって身を晒そうと意気ごんではみたが、手本となるべき島の青年はというと、不便さに見切りをつけてどんどん都会へ流れて行く。娘にいたっては中学を卒業すると、全員が出ていってしまう。ひとり取り残されたわびしさに、わたしは悶々としていた。
同じ諸島の南端にある横当島という無人島に、国土地理院の測量人夫として臥蛇島から一週間だけ出張したことがある。夜間、携帯していたラジオのダイヤルを回したら、偶然にも福岡の放送を受信した。激しいウエーヴの掛かった音声の中から先生の声が流れてきた。どんな内容だったか、今では思い出せないが、一瞬、呼吸が楽になったことを覚えている。
先生は、殻を閉じさせない仕掛けをわたしにしておいて、余裕のある笑みを浮かべる。
〈この男は人の言うことは聞かんが、自分の興味のあることだと身のこなしが軽くなるからなあ〉とでも映ったであろうか。実際、わたしにはそうした癖があった。以前、先生に
「温泉の調査をやらんか」
と、誘われたことがある。基礎資料として大切な項目だから、と口説かれたのだが、気乗りがしなかった。「調査」という響きを耳にしただけで拒絶反応がでるのだった。
聞き取り調査をする人がいれば、当然にされる人がいる。互いの話が興に乗っている最中に記録することを優先させれば、文字としては定着するかもしれないが、その心意気までくみ取ることは難しい。心意気こそすべての源だとの思いから、まずは相手を丸のみにせずにはすまされないのだった。忙しく聞き歩くのではなく、一点にとどまり、全身を耳にして飛んでくる昔なり声なりを捕らえようとした。記録ノートにではなくて、体に刻んで記憶する。穴だらけの記録を望んでいるわけではないが、こうするしか自分を納得させる術を知らなかった。
ノートは持ち歩かないから、当たり前のように、カメラも持たない。広角レンズも及ばない、三百六十度の視界を網膜に焼き付られると思いこんでいた。
他の所員はあれこれと項目を割り振られると、精を出して先生に応えようとしていた。何ということはない雑談の席であっても、メモを取る人がいるくらいであるから、皆にとっては、先生のひとことは値千金であったはずだ。焼き物を集めて全国を歩く者や、和紙、人形、織物、竹細工、ワラ細工、その他、他方面に人材が割り振られていった。「人は課題を与えられんと、仕事はでけんもんよ」と、師と仰ぐ渋沢敬三氏の教えを次代にも伝えようとしていた。
ひとりだけわたしが気にかかった若者がいた。和紙の調査を割り当てられ、なんとか先生の期待に応えようと、はた目にも必死で動いていたが、あるときから、いっさいの連絡を絶ってしまった。責務の重さに潰されない気配りを怠るような先生ではない。その若者にとって、不向きな仕事であったとしか思えない。
わたしのなまくらな受け答えがあって以降、先生は何の注文もわたしにつけなくなった。同時に、他の所員には口にする、「学者になっちゃ、いかんよ」もわたしには向けられることはなかった。先生は渋沢敬三師の教えを堅く守って、偉そうに学者ぶることはせず、内実のある学問を修めようとしていたのだ。
わたしは先生をトイレから送り出して、その場で封筒を開いた。一万円札が五牧入っていた。金のかさに驚く。わたしは「すまない」とも「ありがたい」とも言葉に上らせず、うわずった気持ちに駆られる。「急行券が三百円と、西鹿児島までの運賃が二千円と少し掛かる。往復の船賃を差し引いても四万円は自由になるぞ」
研究所の所在しているビルの玄関を出ると、目の前に大きな通りが南北に走っている。六月の陽の入りは遅く、見上げる空には茜色の雲が浮かんでいた。あしたは晴れそうだ。勤め帰りの雑踏が始まっていたが、朝の出勤時とは違ってひとりひとりの歩調がゆるやかである。時折、あたりの空気を裂くような笑い声がわいてくる。わたしはすぐに流れの中へ踏み込むことがためらわれ、しばらく玄関口に立っていた。
谷川雁氏が六年前に著した臥蛇島のレポートを思い出していた。島の青年が魚を分配する場に出会い、著者は思わず、「現代の再前衛だ」と叫ぶ場面が措かれている。均等配分が徹底していたばかりか、出漁しなかった年寄りや後家家族にもー人前の配当がある。配当を受ける側からすると、それは施しではなく、当然の権利なのだった。平等な暮らしを夢見る六十年安保闘争の闘士は目を見張った。そのレポートの存在を友人に教わって目にした時、わたしは反射的に、「前衛も後衛もない」と反駁していた。その気持ちを先生に訴えたことがある。先生は、「ありゃあ、詩人やから」と言って曖昧な笑顔を作った。詩人だから、想いを自由に膨らませて良いということなのだろうか。それとも、詩を詠むことと、民俗の報告をすることとは、別のことであり、混同してはならない、といさめたのだろうか、わたしには判然としなかった。
島が無人になった翌年、わたしは鹿児島の西駅(現、鹿児島中央駅)近くのアパートの一室を借りた。そこで、臥蛇島で手に入れた文書類の整理を始めた。歴代の総代預かりの文書が風呂の焚き物になるところを貰い受けてきたのだ。まずは、大正十二年以降の島の大福帳の復刻を試みる。それ以前のものは大火で消失していた。なぜそんなことを手掛けたかといえば、憤感を内に秘めて各地に散っていく旧島民を、わたしはまんじりともせず凝視していたのだが、相手が無言であるから、こちらも無言で控えているしかなかった。かといって、このまま立ち去る気もしない。島には紛れもなく人が暮らしていたのだという証拠を遺しておこうと、島の遺産刊行を勝手に思いついたのだった。
昼間は県立図書館に通って「金銭入出帳」と銘打った大福帳を読み解き、夜になると、それを自室でガリ版に刻んでいった。人口二十万余の町の表玄関近くに宿はあったのだが、夜ともなると、辺りに人の気配がしない。到着列車も間遠になり、時折響く蒸気機関車の汽笛ももの悲しい。鉄筆がヤスリ板に擦れる音だけが室内に響く。〈明日は、版に切った分の原紙を印刷機に掛けよう〉。少しつつでもいいから印刷することで、自分の尻に火をつけた。自分をあおる工夫をひねり出したのである。「人は課題を与えられんと、仕事はでけんよ」のことばが頭に浮かぶ。
朝を待って、輪転機のスクリーンに原紙を張り付け、手動ハンドルを回して試し刷りをする。一枚を取り上げて、修正する箇所がないかを確かめる。間違いないと判断してから、インクの濃さを調整する。今度は自動スイッチを入れる。機械は快調なリズムを刻み始め、孔版上質紙に黒いインクが染みていく。
印刷ミスがあってはいけないと、下を向いて一枚一枚の紙の流れを睨む。サッ、サッという乾いた摩擦音が規則正しく吐き出される。いい道具を手に入れた、と自賛した。近くの和文タイプライター教室の払い下げ品である。茶封筒の中から抜いて支払った額はちょうど四万円であった。半年の間に中身は一度入れ替わってはいるが。
鹿児島に居を構えてから一年と何カ月か後、何百枚かの原紙が切り終わり、二冊の本が生まれた。『臥蛇島金銭入出帳』と『臥蛇島部落規定』である。インクの匂いも生々しい本を開くと、ページに挟まれて、先生の声が我がもの顔で飛び出してきた。
「島の最後をしっかり見届けにゃあ」
わたしは「嵌められた」と、気がついたがもう遅い。その直後、開けっ放しの窓から、塀越しに年寄の陽性な笑い声が飛びこんできた。「え、へ、へ」と聞こえたときにはゾッとした。