野娘幻想(1)
大の字になって体を横たえて熟睡していたわたしは、船体の異様な横揺れで目を覚ました。船室で本に目を通していたのは、平島、諏訪瀬島あたりまでで、その後の悪石島や小宝島の寄港はまったく覚えていない。朝の六時に中之島を出港して、六時間後に宝島に着いた。わたしはその行程の半分を夢の中で過ごしていた。
上体を起こして首を回してみる。満室になれば百人以上は収容できるであろう二等船室には誰もいない。いつもはつけっ放しのテレビだが、すでにスイッチは切ってあった。客は降りる準備をして舷門に向かったのだろうか。あるいは、ここが諸島内では最後の寄港地であるから、大方の客はすでに途中の島で降りてしまったのかも知れない。
千五百トンの定期船のフェリー・としまが宝島の港内をゆっくり旋回しだした。進行方向を百八十度回転させて、舳先を沖に向けた恰好で着岸しようとしている。わたしは、自分が使った毛布をたたみながら、ガラス窓越しに港をうかがった。ナガシ(梅雨)の激しい雨足が視界をさえぎる。
*
空っぽの船室を抜け、階下のフロアーに出た。そこにはすでに数人の降船客が固まっていた。舷門には繁則が立っていて、タラップを取り付ける準備をしていた。ずんぐりした体型は昔と少しも変わらないが、服装が違っている。作業服ではなく、折り目の入った黒いズボンと真っ白なシャツを身につけている。喉元には黒の蝶ネクタイが止まっている。ホテルのフロント係と変わらない出で立ちを、わたしは内心で、「似合わない」とからかっていた。
タラップが船と岸壁との間に渡されると、繋則が客を誘導し始めた。「足元が滑りますから、注意してくださいよ。」ちょうど満潮時と重なったために、舷門が岸よりもニメートルばかり高くなっている。その分タラップの下り勾配がきつくなるので、客は手すりを握りしめながら、ゆっくりした足取りで岸壁に降りていった。無駄口を叩くものはひとりもいない。繁則はひとりひとりから乗船券を受け取るたびに、「ありがとうございました」と、ていねいに返していた。わたしには、よそ行きの言葉遣いとしてしか受け取れず、またしても茶化したい衝動に駆られる。薄汚れた作業着姿で、荒削りな叫び声を立てて甲板を走り回っている繁則の記憶しかないのだ。
繁則は悪石島出身で、島の中学を出てから村役場の臨時雇員になった。この周辺の島々はトカラ諸島と呼び習わされているが、行政上はひとまとめにされて十島村(としまむら)と呼ばれている。役場の建物は島にはなくて、鹿児島市内にある。そのほうが、各島と連絡が取りやすいからだ。繁則はそこの雇員となり、すぐに船舶課に配属された。それが昭和三十年代の後半である。それから四十余年、この村の定期船に乗り組んでいる。当初は二百五十トンの第二・十島丸であった。その後が五百トンの第三・十島丸、次が千トンのとしま丸、いま、千五百トンのフェリーに変わっている。
「よう降るなあ。ナガシやもんなあ」
最後尾に付けていたわたしが、繁則の前に進み出て、港を見下ろした姿勢で声を掛ける。くだけたもの言いに、繁則がすぐ乗ってきた。船員の顔をかなぐり捨てて、島民の顔に変わった。
「ワイ(あんた)とは久(ひさ)かたぶりやなあ。何ごとな?」
繁則は切符をわたしから受け取りながら、渡島の目的を質した。後続の客がいなと分かり、話に身を入れる。
「また、誰かに面会して、本でも書くとじやろう」
言外に、余計なことは書くんじやないぞ、とけん制している。わたしが島の日常をガリ版本にして出版していたのを知っていたのだ。
「イニヤ(否)、幸一の墓参りよ」
「ええ、そうな」
何の疑念もないという顔で領く。墓参の響きが島に生まれ育った者にはどれだけの力があるか、わたしは知っている。すべての煩わしい説明や言いわけはいらない。たとえ渡島の動機づけが他にあろうとも、墓参と対になっているのなら、どんなことでも許される。やましさがフッとわたしの体内を走る。
確かに、幸一とは濃密な日々を共に過ごした。測量人夫として島々を回ったこともあるし、名瀬や鹿児島の街に出て飲み歩いたこともある。金がなくなり、幸一が渡りをつけた貨物船にただ乗りして島に帰ったこともあった。心に残るできごとをふたりで作ってはきたのだが、年月が経てば、どこかで記憶は霞んでいく。わたしの墓参は、幸一との思い出を新たにしたいというよりも、そうすることで自分と島との繋がりが、何とかつなぎ止められるのではなかと、義務のようなものに駆られてのことであった。繁則が親しげにわたしに語りかける。
「もうニシ(彼)が死んでから、二十年ちや、きかんどなあ(言わないなあ)。二十五年余りになりやあせんか?」
わたしが幸一と一緒に測量人夫として、横当島(よこあてじま)に渡ったのが昭和四十三年だったが、あれから十五年経った昭和五十八年にガンを患って他界した。四十歳になったばかりであった。それがちょうど二十五年前になる。繁則は過ぎた時間を指折り数えているのか、定まらぬ視線を遠くに投げていた。激しい横なぐりの雨が風景を消していた。
*
四十年前、わたしは臥蛇島(がじゃとう)で暮らしを立てていた。定期船の寄港順で言えば、中之島と平島の間に浮かぶ島である。南北にならぶ島々の最南端の宝島から見ると、五つ鹿児島寄りの北の島ということになる。いまは無人島になっているが、当時は人口四十余人の有人島であった。
臥蛇島の船着き場は北東の方角に向いて開いている入り江の最奥にある。丸い筒状の入り江は、三方を直壁に囲まれていた。そのいただき近くには幾十本となくビロウ樹が生い茂っている。崖下に落ちそうな格好で岩にしがみついている樹もある。巨大な扇子状の葉が天空を覆い、ただでさえ陽の入らない湾内を、一層暗くしていた。
直壁のところどころに岩穴があり、白いペンキを垂らしたような跡がある。何百羽とうカツオ鳥が、我がもの顔で出入りしている。ミナトの名で呼ばれる船着き場からは、崖をうがって作られた石段が百も続く。足元をすくわれるような急坂を上り詰めると、広々とした台地が開けている。そこに十戸ほどの笹茅葺きの家が点在している。家々の周囲は琉球寒山竹の覆われていて、防風林替わりをしていた。
集落の中は空き家が目立った。多いときには二百人近くいたというから、わたしが住み始めたときには、その五分の一の島になっていた。日本復帰を遂げたのが昭和二十七年で、それ以降は、本土との往き来も自由になり、毎年十数人づつが島を離れていった。
わたしは空き家のひとつを借りて、島民のすることをなぞるようにして過ごしていた。畑を打ち、カツオを釣り、牛の世話をやいていた。素潜りでエビ捕りもした。ときには、共同作業で野放しのヤギ捕まえに出かけることもある。そんなときは先頭になって働く。拙い技を体力で補っていた。島民は、都会から流れてきた若造を、初めは奇異の眼で眺めていたが、いくらもしないで、不慣れな新参者という見方に変わっていった。このまま過疎が進めば無人島になるかも知れないという不安が、少々のいい加減な流れ者でも大目に見る癖がついたのである。わたしは、道普請や家の造作といった日常の労働にしても、祭礼の使い走りにしても、最若手として走り回っていた。島の者はそんなわたしを目にして、
「島の若っか者は、都会に出ていくとに、ワイ(おまえ)は都会から島に来っとじゃから」
と、理解に苦しんでいた。
わたしはわたしで、別の魂胆から島に渡ってきたのである。太古の夢をむさぼっていた日々の中で、「野娘はいないだろうか?」と、目をぎらつかせ、もしかしたら、離れ島に渡れば見つかるかも知れないとフッと思った。野娘とはどんなものなのか、具体的な像は何も描いてはいなかった。それで島に渡ってみたが、同世代の男女はゼロであった。これでは野娘どころではない。どうして気づかなかったのか、とトンチンカンな自分を笑ったが、去る気持にもなれない。、
太古の夢みに耽っているころ、わたしは洞窟で暮らしていた。腰蓑一丁を身にまとい、野山を駆けめぐり、ヤジリを構えて獲物を追いかける。そこでは共同作業のようなものがなかったから、きっとわたしはひとり暮らしだったのだろう。
島に渡ってみると、洞窟はなく、代わって茅屋根の小屋があった。そこで寝起きするようになった。そうなると現金が要る。台風で戸が飛ばされれば、釘を鹿児島の金物屋から取りよせなければならない。作業の後に、手伝いに駆けつけてくれた人たちへの一杯は、内地焼酎を取りよせて振る舞う。島で仕込む芋焼酎は密造酒扱いされるので、誰もが怖がって作らない。わたしにも作らせない。また、釘の一本一本を鍛冶仕事で作っていた時代もあったが、それは百年前に終わっていた。夢を結ぶ隙がない。
現金を求めて、島の灯台の人夫仕事に出働した。その仕事が切れれば、今度は北隣の中之島へ渡って、港湾工事や林道工事の仕事に出る。中之島は村内で一番大きな島であり、人口も多く、現金収入につながる仕事が途切れることはなかった。
*
そんな日々を臥蛇島で送っている最中に、国土地理院の測量班が福岡から渡ってきて、地図作りを始めた。それまでにも五万分の一の縮尺地図が市販されてはいたのだが、怪しげなものであった。明治の末に陸軍測地部が作成したのを元にして作られていたが、これは海上からの三角測量だけで、現地測量をしていない。それだから、海岸線の形が実際とは違っている。そのときは、ほんの何日か島に上陸して、御岳(おたけ)の山頂に三角点の標石を埋めただけである。
わたしにとって、地図の出来不出来には関心がなく、その「ほんの何日」が身近に感じられた。標石を埋めるために山頂でセメントを捏ねたのだが、水が入り用であった。まだ二十歳にもなっていない娘盛りのオセイが、頭上に嚢(かめ)を乗せて、ジャングルまがいの道なき道を、はだけがちな着物の前裾を気にしながら、五百メートルの山に登ったのである。”臥蛇小町”と、他島の若者が憧れをこめて噂したオセイは、七十をすぎてもリンとしていた。
地理院の測量斑は総勢三人で、皆が福岡県の都会に住んでいる。密林をかき分けての測量は、体力を超えた仕事のようだった。わたしも人夫として雇われて山を登った。三人は勝巳の家に逗留していたので、夜はそこで飲み会がもたれた。畳の上に置かれた丸いちやぶ台を囲んで焼酎を飲む。人の背丈よりもわずかに高い位置に渡された梁からランプが吊されていて、微風にも炎が揺らぐ。そのたびに明暗の縞模様が皆の顔に写し出された。分校に備え付けてある教材用の発電機を稼働させれば、たとえ一時間であっても、各戸に電球のひとつぐらいは灯すことができるのだが、この何ヶ月間は故障していて動かない。ランプだけが夜の明かりであった。
漆黒の闇が軒下まで迫っている。近くの森から、「ホッホー、ホッホー」と、オッポロの鳴き声が聞こえてきた。賑やかな宴の最中に、勝巳が沈んだ声を出した。
「島は淋しかど、人が居らんごとなって。バッテン、今夜は別やろう。ワイドモ(あんたたち)が来てくれたおかげで、焼酎が旨かわい」
人恋しさを丸出しにした勝巳の顔がゆるんだ。測量斑のひとりが、
「島は良かわい。この静けさは街には無かろう」
勝巳の思いとは交差するコトバであったが、誰も気にしない。
「ワイドモは家を出て何週間になっとか? 」
主人の勝巳が旅人の不自由さを哀れんだ。
「ここに来る前に中之島で仕事をしてきたもんねえ。かれこれ二週間になるとばい」
「ウッカタが見欲しかろうで(奥さんに会いたいだろうなあ)」
勝巳は三人に心底から同情した。脇に座っていた連れ合いの貴子にちょっと目を走らせながら、同じことをくり返す。
「見欲かろうで‥‥‥」
三人は笑顔で聞いていた。貴子が横合いからチャチャを入れる。
「ワイ(あんた)は、ひとり酔っくろうて‥‥‥お客さんの相手もせじ(しないで)」
勝巳は、「エ、へ、へ」と、人の良さそうな笑い声を立てた。間をおかずに、三人をせき立てる。
「かまわん、貴子のを握らんか」
黙って聞いていたわたしはドキッとした。何が始まるのかと生唾を飲む。勝巳が貴子の背を押して前にいざらせる。貴子はブラウスの前ボタンをはずすと、両手で重ね合わせを開いた。豊に膨らんだ乳房が、薄明かりの中で怪しく輝く。貴子は無言のまま、終始ニコニコしていた。
「かまわん、我がウッカッタ(連れ合い)と思って、握らんか!」
勝巳はためらっている三人に、遠慮はいらない、とけしかける。まるで、馳走の一品を勧める口調である。若手のひとりが照れた語調で、「貴子さあ-ん」といいながら、両の手のひらを上にして、貴子の乳房を下から捧げ持った。遠慮がはたらいたのか、ギュッと握りはしなかった。のこりのふたりもお相伴にあずかった。
開けっぴろげな仕草は、その場の笑いを誘った。一部始終を目撃したわたしであるが、心臓はいつもと変わらない鼓動を続けていた。隠微さのかけらもないことが興奮を覚えなかったのと、すでに体の何分の一かは島の側にあって、客を接待する主人に通じていたからであろうか。
測量斑は、無人島の横当島も含めて、十島村全域で現地測量をすことになっている。一行は、臥蛇島が終わったら、横当島に向かうという。別班が平島にいて、作業が終わり次第、定期船の便を利用して宝島で二班が合流することになっている。定期船は無人島には寄らないから、宝島からは海上保安庁の巡視艇に送ってもらう手はずが整えられていた。
「あんた、行ってみないか?」
班長の誘いに、わたしは二もなく話に飛びつく。宝島には幸一というもうひとりの現地採用の人夫が待っていると聞かされた。無人島は神の棲む島である。この沖を通る船は、昔から手を合わせて海上安全を祈顧する習わしがあった。島の元々の名前もオガミ(拝み)となっている。藩政時代には、ここが海賊の拠点であっと言われている。その頭目は女であった。島津の殿様の勘当娘が出自である。それがためか、この島に足を踏み入れた者は、離れるときは男のイチモツに似た石を祭らなければならない。わたしはイチモツ石を臥蛇島のハマでこっそり探して、それを懐にして横当島へ向かうことにした。
「いっとき島を留守にするでなあ」
わたしは後ろめたさを引きずりながら、総代に申し出る。
「きばって(頑張った)行って来やい」
わたしひとりが欠けると、ハシケ作業にも支障をきたすのは分かっていたが、総代は軽く受け応えた。臥蛇島に限らず、村内のどの島にも定期船の接岸できる港がないから、沖掛かりの十島丸目がけて、ハシケ舟をハマから通わさなければならない。荷物も客もこれに乗せて運ぶ。
定期船に乗る日が来た。いくら船の客になるからといって、よそ行きを着こんでお客さん然とはしていられない。舳先に立って竿を立てる者、エンジン室に入る者、舵棒を握る者、本船の船倉からモツコに入れて降ろされる雑貨を、ハシケに積み換える者、これだけでも四人は欠かせない。五人いる働き手の男のひとりは村役場の現地駐在員役を委嘱されているから、手紙のやり取りや、判取りという名の現金を扱う仕事を船の事務長と一緒になって、停船中に処理する必要があった。ハシケ作業に顔を出す暇はない。ミナトにも人が要る。戻って来たハシケ舟のモヤイ綱を取る者が何人か必要だ。分校の先生や男子中学生は頼りになる手かずである。
わたしは着替え用のシャツとズボンを風呂敷に包んで、あらかじめ船室に運んだ。その後で、作業着姿で荷役作業を続ける。甲板員になって数年になる繁則がウインチを操作して、モッコをハシケ目がけて降下させた。その瞬間、早い潮の流れにハシケが船尾の方に押し流された。荷を降ろす位置がずれ、オモテ(舳先)の縁に立っていたわたしの頭上に降りてきた。大声をあげて、「待たんか!」と叫んだが、間に合わない。モッコの底がわたしの頭をかすめる。わたしは身をかわすことができず、尻の方から海にドボンとぶざまな落ち方をした。潮に流されてハシケから離れていく。幸いに、手にモヤイ綱を握っていたから、それをたぐってハシケに這い戻ることができた。体に張り付いた衣服から滴がしたたり落ちる。手のひらで顔をぬぐってから、目尻を釣り上げて本船を睨みつけるが、繁則が、いたずらをした後の、勝ち誇った笑いを浮かべていた。濡れネズミのわたしの姿がおかしいのか、その内に腹を抱えだした。わたしが怒りを露わにした顔をつくるが、暖簾に風である。わたしは勇んでハシケから本船に飛び移ると、繁則が、「まあ、怒らんでもいいが」となだめる。繁則は少しも危険を感じていなかったようだ。船員用の浴室にわたしを連れて行き、着替えのパンツを投げてよこした。