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第2回 10/19~31

一〇月一九日 快晴

好天続きである。友人宅から歩いて日向市の中心部に出た。摂氏三〇度近くの日照りに、季節感を狂わせながら歩いた。救われたのは、大地が焼けていないので、足元から這い上がってくる熱気がないことである。夕方、荒川健一氏が東京からやって来た。明日からの行動を共にする写真家である。同じように、”移動マンション”を運転してやってきた。氏の”マンション”はライトバンの後部座席である。

一〇月二〇日 曇、のち快晴

太平洋に面した海岸沿いに広がる日向市街から内陸に向かう。国道三二七号を西に走る。五〇キロメートル弱の道を一時間で走り抜け、諸塚村(もろつかそん)に着いた。全道に歩道が整備されている、幅員一〇メートル前後の二車線道路であった。七年前にも同じ国道を走ったが、途中の何カ所かは、車のすれ違いが難しかった記憶がある。

諸塚村役場を訪ねて、村内地図を貰う。別れぎわに係りの人が、笑いながら注意してくれた。「気をつけてくださいよ。怪しまれないようにね」。すでに、怪しげな雰囲気を察知されたようだ。村内の道を分け入ると、立て看板があちこちにあり、その文句は同じものであった。「怪しい人と思ったから、すぐに通報しよう。車のナンバーも忘れなく」という類のものである。それを目にして、山梨県での体験が浮上してきた。ひとり歩いて集落に入っていった者が、有線放送が先回りして、動きを監視されていたのである。サンダル履きで、片手には三〇センチ四方で、厚みが一五センチの手提げカバンを持っていた。中味は、筆記用具と下着であった。

一軒のブドウ栽培農家に泊めてもらった。春先のブドウ剪定時期であり、どの家も人手が足らなかったので、日雇いの人夫として受け入れてもらった。宿を確保できた安心感から、わたしはその夜、熟睡することができた。寝息を立てる枕元で、手荷物の検査が行われた。その事実を知ったのは、だいぶ後になってからである。

荷の中に入っていた一枚の名刺を手がかりに、家人はわたしの身元を確かめようとした。名刺に印刷されていた人に電話を掛けた。「おたくの息子さんが、わが家に来ておられますが、名前はイナガキナオトモさんでいいのですね?」夜半に叩き起こされた友人は、「はあ」と、寝ぼけ声で応えたそうである。姓名が違うのに、なぜ息子と断定したのか、分からない。職業が大学の教官だったからだろうか。

閉じこめられているという意識が強く働けば、外来の異人は恐怖の対象でもある。荒海に洗われる島とか、険しい山に囲まれた山村ばかりではない。ブドウ農家の立地は、広い台地の上にあった。同族意識が強い地区だったのかも知れない。

諸塚村の初日は、ひと目を避ける配慮をする必要もなく、標高八〇〇メートルのところにあるオートキャンプ場に車を停める。ふたりで夕食を摂ったあと、満天の星くずに感嘆する。一機だけ、飛行機が北から南に飛んで行った。福岡あたりから飛び立ち、鹿児島か、沖縄方面に向かっているのだろう。

一〇月二一日 快晴

国道を五ヶ瀬町の方角に折れる。道々で、竹細工の注文の取れそうな集落を嗅ぎとり、人影を見つけては声を掛ける。本道から枝分かれしている小径に入っていくが、手応えはない。再び国道に戻って、五ヶ瀬町に向かう峠道を上って行く。わたしの竹細工の師匠はこうした山道を徒歩で分け入ったのである。昭和二〇年代であるから、車道もなく、一軒の農家で庭先(にわさき)仕事(しごと)をして、隣の農家に移るのに、ワラジを二足潰したと語ってくれた。

飯干(いいぼし)の物産販売所という看板の掛かる建物に到着した。前庭は舗装されていて、白い塗装で仕切られた駐車スペースが、五台分ある。車は一台も停まっていなかった。建物の脇では、七〇歳前後のふたりの女が小豆の脱穀をしていた。近寄って、この付近の竹細工事情をたずねた。ひとりが答えてくれた。

「カゴ屋さんかい?近ごろは聞かんちゃねえ。どこから来とらすとじゃろかい?」

「関東からやが、修行は山向こうの球磨やもんね」

怪しげなコトバを吐いて、相手にすり寄ろうとしてる自分があった。

「近ごろはカライカゴ(背負いカゴ)は使わんちゃねえ。うちなんか、家の前に車が停めらるっから、プラスチックのコンテナに入れて、何でも運ぶっちゃねえ」

「・・・・・・」

「わたしらの若いころは、道もなし、車もなしで、それこそ、こしこのカライカゴを四つ持って仕事に出よったですよ」

手元のカゴに目をやって教えてくれた。

「四つも?」

「そう、四つを畑に上る途中に、間隔を取って置いとって、ひとつがいっぱいになれば、道のところまで背負(から)って降ろし、次に上って行ったときにゃあ、ひとつ下の畑で採れたとを入れて、下まで降ろしよった。いちいち中味を道端に空けんでから、家まで運びよったっちゃきねえ」

それほど、家も畑も急傾斜地にある。プラスチックが普及していなかったから、農具は竹製のものが多い。カライカゴだけでも数個を用意しなければならなかった。近くの集落にひとりのカゴ屋がいて、家々を泊まり歩いて、注文を受けたカゴを作っていた。

「このカライカゴはその人の手やが、もう死んで三〇年からになるもんね。戦争で片足の膝から下がなか人やったが、器用な人やった。何でん作りよったっちゃ。」

需要は後を絶たず、「カゴやさんは金を遺したっちゃきねえ」と、そのお年寄りは述懐した。わたしは、話題のカゴの口をつかんで引き寄せた。ヒゴの幅が不揃いであるが、丈夫にできている。中をのぞいてみる。底が破けていて、段ボールの端切れを敷いて、中味が落ちないように工夫していた。

「修理してあげようか?」

「破れとるから、よか」

「なおるが」

「よかよ」

「なおさせてくれんか?」

駐車場で昼飯をとってから、午後はカライカゴの修理をすることにした。仕事場として、駐車場の隅を陣取らせてもらった。この修理が、新しい客を引き押せるきっかけになれば幸いである。カゴの持ち主から、竹藪のありかを聞き、竹の切り出しに向かう。荒川氏が手伝ってくれた。

一〇月二二日 快晴

朝食を摂った後、カゴ修理をする。九時過ぎに終わる。その後、コーヒーを飲んでひと休みする。予期したように、カライカゴの注文を受けた。黒竹(くろちく、マダケのこと)を三本、昨日切りだしてきたので、その残りを使って、新作にとりかかる。

少し小ぶりに作ってくれ、とのことだったから、タテの骨を細くした。また、見本のカゴを周回させている竹ヒゴの幅を細くした。

昼食を挟んで、午後三時まで仕事をする。その後、道具類をかたづける。竹箒で竹クズを掃除する。物産直売所の駐車場を借りているので、掃除をたえず心がけている。これは、居候の心得である。

風呂に入りたくなり、二台の車を連ねて、飯干峠を越えて五ヶ瀬町に向かうことにした。ついでに食糧の買い出しもすることにした。なぜ、一台で行かなかったかというと、成り行きで、峠向こうのどこかで一夜を明かすかもしれないと予測したからである。標高八〇〇メートルの峠の周辺は紅葉が始まったばかりである。温暖な天候が続き、例年よりも色づきが遅いそうだ。

峠向こうには泊まらずに、六時過ぎに飯干に戻ってきた。販売所は無人になっていて、あたりは闇の中であった。販売所のトイレの脇に電気のコンセントが露出していたので、持参の延長コードを張って、明かりを採った。調理をして、晩酌をする。諸塚村の地場焼酎とビンビール二本。このビールは日向市の友人の差し入れである。九時半ごろ就寝。

一〇月二三日 午前中は快晴。午後から曇る。

午後から曇になったのは、台風の影響かもしれない。南の海上を北上中とのことである。

朝、仕事を開始した直後、ひとりの六〇台の婦人が大声を上げながら、近づいて来た。

「カゴ作りしよっとね。カライカゴを作ってくれんやろうか?近ごろはカゴ屋さんが居らんちゃけ、カゴが手には入らんちゃきねえ。」

「良かろう」

「そいじゃけん、黒竹(くろたけ)が無からんば、いかんちゃろう?」

「・・・・・・」

「ハッチク(ハチク竹)なら有っとやがねえ・・・・・・」

「やっぱ、黒竹でなからな」

「じゃあねえ」

「・・・・・・」

「どしこすっとやろうか? 一個が」

「五〇〇〇円かなあ」

「作ってくれんね?」

わたしは、笑みをたたえて注文を受けた。前日の続きをする前に、鮎カゴの修理をする。恐らくは東南アジアからの輸入品であろう。形は日本製とうり二つにできているが、竹が違う。これは、地下茎で子孫をふやしていく竹とは違って、株立ちしているバンブーである。節の高さが極端に低く、柔らかそうな表皮は、光沢を欠いて、白くさえ映る。

九時には修理が終わる。依頼主がやってきて、「いくら?」と問う。「タダでええよ」。お礼にといって、カッパえびせんの一袋を、販売所で手に入れて、わたしに手渡しする。五〇歳をいくらか超したその男は、嬉しそうにカゴを抱いて帰って行った。

夕闇が山間の谷に迫ってくる四時過ぎに、六〇歳の中ごろと思える男が訪ねて来た。峠近くの国道の補修工事をしている人で、朝の出勤時にカゴ屋が目に入り、いま、帰宅の途中に立ち寄ったのだと言う。駐車場前の道を上り下りする車はけっして多くはないが、わたしのカゴ作りが、避けようもなく目にはいるようだ。その人は、諸塚の村役場近くに住んでいる。我々が日向からやって来た初日に停まった地である。

製茶具を注文を受けた。わたしは見たこともない。依頼主は、現物を幼いころに見たことがあるとかで、どういう編み方であったかを、おぼろげな記憶をたどって説明し始めた。その名称は忘れたが、と前置きした。畳一畳分ほどの広さがあって、四方から人が手揉みをした。子どもも仲間に入れてもらって、揉んだ茶を次の人に渡したような記憶がある、という。

四方から揉めるということは、ゴザ目編みではない。網代編みではなかろうか。どこかの家の納屋の隅にでも現物の欠けらがあれば、それを見ながら復元できるので、まずは、どこかに死蔵されているであろう現物を探すことから始めなければならない。

仕事道具をかたづけて、仕事に区切りをつけようかと、思ったころである。七〇恰好の夫婦が販売所に入って行った。店番をしている女のひとと親しく話している。わたしの構える所から一〇メートルも離れていないから、話の内容は筒抜けである。夫婦は、ここ飯干の出身者で、いまは日向市に移っている人であった。ダンナの方が建物から出てきて、珍しげな目線でカゴ屋を見下ろした。

編んでいるカライカゴの脇には見本が置いてある。店番しながら小豆を脱穀していた人から借りたものである。見下ろしている人は、なんと、そのカゴを編んだ人に屋敷地を貸していた人だった。先に述べたように、三〇年以上も前に他界したその職人は、生前に火災を起こして、家を失っていた。新たに建てる地に困っていて、目の前に立つ人が提供したのである。職人は戦争で片足の膝から下が切断されていた。その兄貴は戦死している。見舞金の受取人は、弟の職人であった。本人は軍人恩給を受けていたから、その両方の金で家を新築したそうだ。

その家も朽ち果て、貸地人は、いま、暇をみては飯干に通ってきて解体を少しずつ自力で進めている。その職人にはあれこれと手を貸したのだが、ありがたいという気持ちの薄い人だった、とこぼした。集落の中での人間つき合いの難しさをかいま見させてくれる。

一〇月二四日 曇。いまにも雨が降りそう。

早朝に事件が起こる。四人組の来訪を受けた。代表格の四〇代の長身の男が表情を殺して発言した。

「電気は誰の許可をもらって使用しているんだい?」

その一語に、何の反論もできない。背後に散ってこちらを見下ろす三人の若者たちの目は、非常の事態に備える構えを隠さなかった。黙っているふたりに追い打ちがかかる。

「役場に報告しようかと思ったが・・・・・・」

身につけている薄黄の上下は、村役場の職員も着ていた。歯切れの良いもの言いが、脳天に浴びせられる。

「昨夜の内に注意しとけば良かったが、今朝になってしまったが、役場の方からも、電気や水道は極力節約して使うように、言われとるし、今後は使わないように。駐車場の使用は、まあ、いいことにするから・・・・・・」

前夜、川向こうに建つ地区の公民館から明るい光が漏れていた。何かの集会がもたれていたようだ。その席で我々の盗電が取りざたされたに違いない。

わたしは、制服姿を見ると、すぐに逃げ出す癖がある。こそ泥をしているという自覚があるからだろう。電車の車掌さん、警備員、お巡りさん、そして、この薄黄色の制服、どの人にも自分から近づこうとしない。心を離して、謝罪のコトバを返した。その人はこうも付け加えた。

「自販機も電気を使っとるが、あれは、皆が利用することやし、役場の方でも咎めはしない」

聞きもしない言い訳をした。してみると、自販機が販売所のソケットから電気を引いていることが、一度は問題にされたのであろう。コカコーラの真っ赤なペイントに包まれて、缶入りの飲み物が終日売られていた。冷えたのもあれば、暖かい飲み物も揃えてある。どちらも電気のおかげであった。電気代は村の予算から払われていることになる。

「あんたたち、悪い人でもなさそうだし・・・・・・寒くはあろうが、電気を使わないように」

電気ストーブでも使っていると思っているようだ。同情のコトバも混ざっていたが、こちらに伝わってきたのは、血の気のない責めであった。

四人はあっさり立ち去った。わたしはさほど滅入ることもなく、カライカゴを作り始める。前日に二度目の切り出しをして、黒竹を三本用意した。回しヒゴをつくり、それを回周させて編み上げる。縁巻きをのこすだけとなった。

夕方、写真を撮りに出かけた荒川氏が帰ってきた。隣村にある民俗資料館にいったら、製茶具が展示してあったという。デジタルカメラに収められた被写体を見せてもらう。エビラの名前が付けられている。この写真さえあれば、何とか復元ができそうだ。明日中にふたつのカライカゴを完成させて、山を下りよう。

一日の仕事を終えて、暗闇の中で、懐中電灯を点けて食事を摂る。小粒の雨も降ってきたことだし、また、寒くもあったから、ふたりは早めに各々車に戻って、床に入った。

夜の何時ごろであったか、一台の車が駐車場に入ってきた。ベニヤ板で囲まれた”移動マンション”からは、外の様子を覗うことができない。ここに入ってくる車は自販機の使用者か、さもなくば、トイレを使う人である。エンジン音を響かせたまま車は止まっていた。頭の中は眠っていたから、それが、どのくらいの時間だったか分からない。長くはなかったであろう。はっきり憶えているのは、ドアーの開け閉めの音がしなかったことである。

一〇月二五日(日) 曇、午後から小雨。

朝は早めに起きて、仕事を始める。ふたつのカゴを早く仕上げたいと、気持ちがせいた。

八時過ぎ、エビラの注文者が立ち寄った。夫婦連れである。これから、熊本に遊びに出かけるのだという。言われてみて気づいたのだが、日曜日であった。休日を楽しむ習性のないわたしには、新鮮な響きがあった。ウイークエンドを待ち望む日常がないということは、労働と休暇という区分けがないとも言える。

前日に荒川氏が撮ってきた写真を注文主に見せると、「じゃった、じゃった」と、合点した。これを参考にしてつくるから、と申し出ると、「あとは、お任せする」の一言を遺して車に戻った。編むのは自分の家のガレージの中でやればいい、と申し出てくれた。発車する前に、名前と携帯電話の番号を紙切れに書いて渡してくれた。諸塚村の役場の背後の高台に広がる上塚原(かみつかばる)集落の住人で、名前を甲斐耕平氏といった。

一〇時ごろ、雨が本降りになってきたので、販売所の軒下を借りることにした。午後三時にふたつができあがる。おおよその完成時間を知らせておいたので、雨の中を傘をさして、品物を取りに来た。

小さい方のカゴは四五〇〇円を請求したが、相手は五〇〇〇円を渡してくれた。ありがたく貰う。大きい方のは五〇〇〇円を請求する。あの大声の女の注文者である。わたしに代金を払った後で、「何か菓子でも持たそうか」と、こちらの顔をうかがう。販売所の棚に並んでいる品のひとつでも買い与えようか、と言わんばかりであった。「菓子以上のモノを貰ったのに、何が要りますか」と、冗談を飛ばしたつもりだったが、相手は笑わない。庭先仕事を終えて帰る職人に日当を払い、みやげを持たせるのが世の習いであった時代を引きずっている。翌年の来訪が自明のことであるなら、石(いし)摺(ず)りが破れても、安心である。カゴ屋はサービスで新品と取り替えてくれる。先回りした礼をしておけば、より安心である。つまり、みやげものを持たすということは、来る年の贈与の強制なのである。

用語を説明しておくと、石摺りとは、カゴの底に取り付けてある竹である。カゴを石の上で摺っても、底が破れないための、簡便な防具である。野良で一年も使えば、破損することは十分に考えられるから、これは取り替えが前提の部材である。馴染みのカゴ屋が来たら、前のを捨てて、新しのと取り替えてもらうのが習いである。使い捨ては、負の思想なのではない。本体を護るための、欠くことのできない積極思想である。

一七キロメートルの山道を三〇分かけて下る。途中ですれ違った車が一〇台であったが、すべてが軽自動車であった。すれ違いもままならない車幅の道を利用する人たちの選んだ車種である。すれ違いの術も熟達している。七曲がりの道ではあっても、対向車を素早く見つけ、道幅の膨れたところで待機している。どこが膨れているが、頭に入っているらしい。まるで、あらかじめ約束でもしているかのような滑らかさで、車はすれ違って行く。

諸塚村の商店街まで下る。日向から来たときの道である。近くにある諸塚温泉に浸る。買い物をしてから、一五分離れたオートキャンプ場で停まる。晴れ渡った天空に三日月が出ている。そのすぐ下に金星が輝いていた。あまりの明るさに、他の星が姿を消している。

暗くなってから、東京のダイサク君から電話が入る。鹿児島で合流して、トカラ諸島の平島へ行くことになっている。一一月二日に鹿児島港を出港する下り便でわれわれは向かうのだが、ダイサク君は、その次に出る六日便に乗ることになった。

わたしの連れ合いの誕生日であったので、携帯電話を通して祝いのコトバを贈る。

一〇月二六日 雨

甲斐耕平氏へ連絡して、材料の竹切り場を案内してもらう。切り出し作業は雨上がりにすることにした。午前中は公民館内にある図書室で『諸塚村史』に眼を通す。午後、館の駐車場で昼食を摂った後、午睡を一時間する。二時半に雨が上がったので、耕平氏宅を訪ねて、竹切りをする。帰りぎわに差し入れを受ける。シシ肉と栗の渋皮付きの丸ごと煮であった。煮付けといっても、ご飯のおかずではなくて、茶菓に向いている。

一〇月二七日 快晴

塚原神社前の広場で竹割りを始める。ツカバルジンシャと発音する。けっしてジンジャとは呼ばない。この広場は塚原伝統芸能伝習館の前庭でもある。この傾斜地の村にしては贅沢過ぎるほどの広さがある。以前は幼稚園が建っていた。それよりも前は、この神社のための空間であったであろう。広場の隅に立つ、二〇〇年の樹齢を重ねた杉が二本、仁王門のようにして拝殿に向かっている。

この広場を借りられることになったのも、耕平氏の口利きであった。初め耕平氏は、道端で竹細工をすることを勧めてくれたが、断った。竹のクズが道を汚すのを嫌ったからである。舗装道ではあるが、道脇の一部に砂利が敷してある。細かな竹クズが砕石の間に食いこむと、なかなか取れない。

物珍しさも手伝って、何人もの見物客が訪ねてくる。柿を差し入れてくれた人がいた。この人は、ポケットに何個かの柿を入れていて、その内の四個を置いていった。一〇年前に東京の練馬区から帰ってきた人である。溶接工であった。

久しぶりに洗濯をする。広場にロープを張って、二人分のパンツやシャツを干した。

一〇月二八日 快晴

次々と注文がきて、これをこなすとなれば、鹿児島へ向かう途次に訪ねる予定をしていた、水上村の友人宅に寄る時間がなくなる。そのことを友人に電話で知らせる。「すぐそばまで来ておって・・・・・・」と言われて、言い訳をする。「帰路に寄らせてもらうよ」と、逃げを打つ。

差し入れがあった。かずちゃんから柿が四個、はるみちゃんから、生みたてのタマゴ五個。「・・・・・・ちゃん」と呼び合ってはいるが、子どもではない。孫が何人もいる七〇歳の人である。はるみちゃんは耕平氏の連れ合いである。かずちゃんは竹が大好きで、違った種類のカゴやザルを広場に運んで来て、披露してくれる。高千穂町の職人が編むカライカゴはひときわ美しかった。夜、耕平宅に招かれてご馳走になる。蜂の子を入れた焼き飯は秀逸であった。

一〇月二九日 快晴

朝、七時に始業。カライカゴ三つを編み上げる。始業直後に耕平氏夫人がやってきて、差し入れしてくれた。ショウガの砂糖煮と蒸かし芋を二本。夕方は暗くなる直前まで仕事をする。食事の準備は一切を荒川氏がしてくれた。

仕事上がりに温泉に浸かる。夜、月の下で食事をする。鶏肉のシチューと、スパゲテイー・サラダがおいしい。地元の焼酎である「園の露」が喉もとを鳴らす。耕平氏がやって来て、しばらく話した。

寝る前に鹿児島のジェフに電話連絡する。この青年は宮本常一の『忘れられた日本人』を英訳した人である。青年は鹿児島県下の小さな部落の区長をしている。青い眼が黄色い肌の集落をどのように見ているのか、わたしには興味がある。サイードもアドルノもわたし以上に読みこなしている。非ヨーロッパへの関心は若くして芽ばえた人である。わたしは一年半ぶりの逢瀬を期待したのだが、実母がアメリカから面会に来ているので、今回は時間がさけないとのことだった。

一〇月三〇日 快晴

きょうも朝の七時前から仕事を始める。山芋の天ぷらと生みたてのタマゴ五個を、はるみちゃんが差し入れてくれる。道に出た荒川氏が、お婆さんから柚を三個貰って帰ってきた。氏が二日前に、行商の魚屋から刺身を仕入れたとき、その場に居合わせた人である。

元溶接工も再度やってきた。柿をふたつポケットから出してわたしの前に並べた。自作のメジロカゴを持ってきて披露してくれた。おとりのメジロも木を彫って作ってあった。緑色に染色してあり、これでも十分にメジロが寄ってくるとのことである。多いときには三〇匹を飼っていたそうだ。小鳥を友として日を送っている。ひとり暮らしだから、柿を食いきれない、食べてくれ、というのが差し入れのときの添えコトバだった。

明日中にすべてのカゴを作り終えなければ、島行きが危ぶまれる。午前中に、縁の処理をのこして、カライカゴを四個を編み上げる。午後からは、エビラの縁を植物のツルであるツヅラ、別名カヅラで、縛って完成させる。エビラは、偶然にも耕平氏の納屋から発見されたので、新規に編まないですんだ。ただ、縁が針金で処理されていたので、その部分だけをツヅラに換えた。

それと、かずちゃんとはるみちゃんのカゴの修理をする。ひとつはカライカゴで、もうひとつは米揚げソーケ(ザル)であった。そうした修理・改修を終えてから、カライカゴの縁巻きを始める。ふたつを巻き終える。終業は六時近かった。関東よりも暗くなるのが三〇分は遅い。こんなに長時間の作業は久しぶりである。

夕食は鶏肉で作ったツクネの鍋料理であった。差し入れの柚をタレに絞って入れ、それを付けた白菜とツクネはこの世のものとは思えない。

一〇月三一日 晴、午後から曇り。

夕方から雨カライカゴの大きいのを頼まれていたが、間に合わない。次回の訪問のときに作る約束をして、注文を取り下げてもらった。作り手が断るということは、わたしの師匠が知ったら、さぞ驚くことであろう。他界して三四年になるから、耳に届きようがない。すべての職人がそうだとは言えないが、暮らしにゆとりがある。昭和二〇年代、つまり、一九四五年から一九五五年代に、師匠はこの近辺の山村を渡り歩いた人だが、当時は、注文を貰うことは、生活が安定することであり、出発を遅らせてでも、品物を納めることを優先させた。いま、わたしは自身の都合を最優先させて動いている。現金に不自由しているという意識はあるが、食うや食わずではない。差し入れの食糧があり、小銭を握って商品を買いに走ることもできる。程度の差はあっても、飽食の時代に生きる職人なのである。第一、ガソリンを使って自家用車を走らせての行商である。けして、ワラジ履きではない。土地の空気を肌に受けないで、密室の中でジャズを聴きながらでも移動できる。これは、タビではない。移動である。

午後三時にすべての仕事を終える。注文主たちから現金を貰い、再会を約して広場を後にした。

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